境界に盛られる塩
猫の餌を皿に盛る。それも、どこにも姿を見せない猫のために。
誰の目にも触れない手つきで、キャットフードを二掴みほどそっと落とす。
皿の端には、少しだけ水をにじませるように垂らしておく。それが気配の通り道になる気がしている。根拠はない。
がんもどき——そう呼んでいるが、ほんとうにそれが猫なのかどうかはわからない。ただ、気配だけは確かにそこにある。
だから、俺は毎日、そいつに向かって呼びかけている。
こういうことを繰り返していると、思いがけず過去の記憶が浮かび上がることがある。
それは流れの中でつながった記憶じゃない。もっと不定形で、点のようにぽつんと残っていたものが、ふいに現在の何かと結びつく。少し前から感じていた違和感の正体が、突然わかるときのように。
あるいは、意味を持たなかったはずの行動が、別の文脈で腑に落ちるような──そういう瞬間が、たしかにある。
このときも、皿の上のキャットフードをじっと見ていて、ふと「あ、盛り塩や」と思った。
見た目とかそういう問題じゃなく、行為として。見えないものに向けて、何かを供するという点で、どこか通じるものがある、という理屈だ。
ただ、今やっているのは、何かを拒むためのものではない。何かから身を守るためのものでもない。
むしろ、なにかを呼ぶための、静かな合図だ。俺はこれを召喚と呼んでいる。
つまり、あのときとは正反対の意味を持っている。
あのとき──大学時代のことだ。俺はカラオケ屋でバイトをしていた。
繁華街の裏通り、エレベーターが止まるたびにグワンと軋むビルの三階。湿ったマイクと、剥げかけのソファと、飲み残しのカシスオレンジが混ざったような空気の中に、俺の大学生活の濁った部分が今でも沈んでいる。
その店には、妙にウマの合う芸人が一人、同じようにぬるい空気に沈んでいた。
本名も年齢も、もちろん知っていた。でも、不思議と、そのあたりの記憶はもうぼんやりしている。
たしか芸名は、付き合いが切れてから二度ほど変わったはずだ。
でも、声だけははっきり覚えている。笑うと鼻に抜けるような、やけに人懐こい声。
けれど、ふいに黙ったときは、妙に低く、床下から響いてくるみたいだった。
仮に、Mさんとしておく。
Mさんは、笑い話に乗せて、ひょいと怖い話を差し込むのがうまかった。
唐突に切り替えるんじゃない。まるで、最初からそこに向かって話していたかのように、気づけば俺は、どこか薄暗い場所に連れていかれていた。
深夜のキッチン。客のオーダーが落ち着いた隙を縫って、Mさんは話し始める。俺は揚げ物をつまみながら、それを聞いていた。
話が中盤に差しかかるころ、どこかの部屋から漏れてくる歌声が、ふいに遠のいた気がする。業務用冷蔵庫の音は輪郭を失い、ただの空気の震えに変わる。
そんな瞬間が、何度かあった。それが、あの店で夜明けを少しだけ遅らせていた。
誘いが届いたのは、大学二年の夏。七月の終わり、セミの鳴き声が、風鈴というより工事現場みたいに聞こえはじめた頃だった。
「怖い話だけのライブやるから、よかったら来てや」
メッセージはあっさりしていた。けど、その短さに、妙な熱を感じた。
俺は昔からホラーが好きだ。
たぶんあれは、現実の表面をめくったら、その下にもっと変なものが詰まってるかもしれない、っていう感覚が面白かったんだと思う。不条理だし、意味なんてない。でも、そこにしかない温度がある。
だから、ビデオも、本も、心霊番組の再放送も、それなりに齧ってきた。
けれど、「ライブ」だけは未体験だった。
誰かが舞台の上で、誰かを怖がらせる。その空気ごと味わう。物語じゃなく、空間が語る夜。
それを想像したとき、少しだけ胸が跳ねた。
めずらしく、まっすぐな夜の予定ができた。その時点では、ただ、それだけの話だった。
ライブは、中野駅から少し離れた雑居ビルの一角で行われた。
白い蛍光灯が天井ににじみ、無音のエレベーターがゆっくり上下する、そういう建物。案内板の文字はどれも褪せていて、ひと目で「場末」とわかる。会場の椅子は、ざっと見て三十もなかったと思う。
前列はずいぶん空いていた。なのに、足は自然と後ろへ向いた。引っ張られるように歩いて、後方二列目の端に座る。
なんとなく前に出るのが気が引けるのは、俺の性分だ。けれど、あとになって、それを惜しむことになる。もっと近くで見ておけば、と後から何度も反芻した。
それぐらい、ライブが文句なしに素晴らしかった。
ステージに立つ芸人たちは、みんなちょっとずつ売れていない。でも、そんなことは関係なかった。
空白の置き方、声の揺らぎ、語尾を少しだけにごらせる癖。言い切らない言葉の端に、妙な余韻が生まれていた。その曖昧さが、かえって“語られなかった部分”を立ち上げてくる。
怖がらせながら笑わせて、笑わせてから黙る。その順番で、身体の奥にじわじわと冷たさが降りてくる。
実話か創作かは、わからない。でも、それがはっきりしないこと自体が、物語の芯になっていた。
事実と嘘の輪郭が混ざり出すころに、自分のかたちも少しだけずれていく。そんな感覚。
あの小さな箱の中では、現実がわずかに軋みながら、別の姿をしていた気がする。
まるで、誰かが“現実のふり”をしてこちらを覗いているような気配があった。
その気配に、ひときわはっきりと呼応していた人間がいた。俺の、すぐ隣に。
黒いワンピース。腰まで届く長い髪。蛍光灯の光を透かすと、血管のかたちが浮き上がる。白い、というより青白い。人肌というより、なにか別の物質のように思えた。
すぐ隣にいるはずなのに、距離感だけが異常に遠い。あまりに遠すぎて、座っている、というよりも、誰かに“置かれている"みたいだった。
その違和感が気になって、俺は何度か横目で彼女を見た。
そのたびに、彼女は無表情だった。というか、無反応だったと言ったほうが近い。
笑わない。驚かない。手を動かす気配もない。ただ、視線だけをまっすぐに向けている。
しかもそれは、ステージの上ではなく、ステージの「奥」に向かって伸びているようだった。
“観る”というより、“見る”という行為そのもの──まるで、ずっと前から見続けていた何かを、いまもなお見届けているような。
どの芸人が出てきても、顔つきをまったく変えなかった。たぶん、瞬きすらしていなかった気がする。
そういう無表情が続くと、こちらの想像が先に動いてしまう。
完全に偏見だとはわかっていた。けれど、どこかで聞いた“お笑いの現場には、ときどき情緒の不安定なファンが紛れることがある”という話が、不意に頭をよぎった。
熱心すぎる追っかけ。感情の上下が激しすぎる観客。ステージの空気とは別のリズムで動いてしまう人。
きっと彼女も、そういうタイプなのだろう。そう思うことで、自分の違和感を一旦棚に上げるしかなかった。
だから、これ以上は見ないと決めた。決めた、その矢先だった。
彼女が、ふいに両手を上げた。
拍手のような動作だった。けれど、そこに音はなかった。両手が触れ合ったはずなのに、音の気配すら立ち上がらない。
それは「音が小さい」とか「聞き逃した」という感じではなく、そもそも“音が世界に拒まれている”ような沈黙だった。
そこには、何か見えない膜があった。彼女は、その膜の内側で、密やかに笑っていた。
音のない微笑みは、空気を押しつぶすように淡く、静かだった。
拍手の動作は一度、そしてまた一度。決して乱暴ではないが、リズムがあるとも言いきれない。不自然な繰り返し。
ただひとつだけ確かだったのは、その沈黙が向けられていた先。それは、Mさんだった。
彼女の手は、彼にだけ向かって動いていた。静けさを撫でるような手つきのままで。
ライブは、芸人たちが順番に怪談を語り、それを三周繰り返すという形式だった。
一人で三話。回を追うごとに、観客の反応も少しずつ変わっていく。
けれど、彼女だけは違った。最初から最後まで、まるで映像を止めたように動かない。
感情の所在が消えた身体だけが、ぽつんと椅子に沈んでいた。
ただ、Mさんの出番になると、彼女は静かに両手を合わせた。音を鳴らさず、空気をなでるような拍手。
──もしかしたら、場の空気を壊さないように、あえて音を殺しているのかもしれない。
そう思った瞬間、ふっと腑に落ちた。
──ああ、Mさんの彼女なんやな。
そう考えると、少しだけテンションが上がった。
なんとなく、羨ましく思えたからだ。Mさんには、こんなにも真剣に見つめる“誰か”がいる。熱心すぎて、ちょっと怖かったけど。
終演後、席を立ったとき、知らないうちに肩に力が入っていたのに気づいた。
あの場の静けさが、まだ耳の奥に残っている。笑いよりも沈黙の余韻が、身体のどこかにじんわりと張りついていた。
会場を出たところで、Mさんから「よかったら打ち上げ行こや」と声をかけられた。
特に断る理由もない。なんとなく、そのままついていくことにした。
近くの焼き鳥屋で、安いテーブルを囲んで、6人くらいいたと思う。
失礼な話だが、芸人たちはみんな売れるには少しだけ鈍い感じがして、それが逆に、場の安心感につながっていた。
ビールやレモンサワー、焼酎のボトルまで並んで、会話はゆるく脱線しながら続いていく。
誰かが煮込みに七味と間違えて塩を振りかけたり、別の誰かが唐突にその日披露した怪談の続きを芝居がかって演じはじめたり。乾杯の余韻がまだテーブルの端に残っているうちに、ゆっくりと笑い声が折り重なっていく。その感じが、妙に心地よかった。
ただ、俺はその輪の端っこで、ひとりだけ別のことを考えていた。
あの黒いワンピースの女のこと。沈黙の膜に包まれたまま、拍手をしていた存在。
その静けさを思い出すたび、どこか美しさを感じてしまうのは、酔いがまわる前の気のせいだったのか。
ぼんやりしていると、誰かが煙草に火をつけながら、ぽつりとこぼした。
「あの客席にいた黒い服の女の人さ──」
そのひとことで、場の空気がふっと変わった。全員が、一斉に反応する。
「ああ、いたいた。モデルっぽい感じの」
「めっちゃクールな感じの子やろ」
「そうそう、ずっと無表情の」
まるで互いに記憶の精度を確認しあうように、言葉がつながっていく。
司会を務めていた若手の芸人も、「見てた」と言った。ずっと無表情だったが、Mさんへの拍手だけははっきり覚えている、と。
「なんか、Mさんが話してるときだけ、嬉しそうに見えたんすよ」
そこから自然に、「Mさんの彼女じゃないのか」という推測が飛び出す。
「マジで、どこで出会ったんすか」と、誰かが囃し立てる。みんな、どこかで羨ましかったんだろう。その声に、茶化すような言葉が続いて、笑いになる。
けれど、Mさんの顔つきだけが、周りとははっきりと違っていた。
「いや、あんな子、知らん。ほんまに」
それは、いつもの調子で言った。
誰かが「またまた〜」と被せようとした、その一瞬の後。
「でも、どっかで見たことある気、すんねん。あの子」
ぽつりと、打ち込むように落ちたその言葉は、笑いの波の上に重く沈んだ。
「知り合いとかでもないし、たぶんライブで見たとかともちゃうけど」
張り詰めるわけじゃない。ざらつくわけでもない。でも確かに、一拍、場の呼吸が止まった。
「おかしいやろ。あんな綺麗な子、俺が忘れるわけないやん」
ジョッキを持ち上げた隣の芸人の手が宙で止まる。笑いかけた口が中途半端に開いたままだ。
誰かが「ええ〜」と間延びした声で笑って、ようやく場の温度が戻ってきた。
「それストーカーやったってパターンちゃうか」
「帰り道、気ぃつけなあかんやつ」
冗談のトーンでからかいが続く。笑いも混ざる。
でも、Mさんだけは笑わなかった。口元のどこかに、引っかかりが残っていた。あれはたぶん、冗談の顔じゃなかった。
「今日、Kに聞いてんけど」
話の繋がりは読めない。けれど、名前が出た瞬間、空気が少し引き締まった。
K──霊感があるとかで、当時ちょっと知られていた若手芸人だ。背が高く、前髪がやけに長い。その日もライブに出ていた。
みんなが「ああ」と思い出しかけたところで、Mさんは確認もせず、話を続けた。
「ライブ終わってからな。怪談とかやってると、やっぱ寄ってくるもんなんかって、軽く聞いてみてん」
ほんとは笑い話にするつもりだったんやけど、とMさんは言った。
誰からともなく、姿勢が変わる。箸を置く音、マドラーが氷に触れる音。そういう細かい気配だけが、妙に耳についた。
「K、ちょっと黙ってから言うてん」
Mさんは、その言葉をなぞるように口にした。低く、あくまで淡々と。
「『帰ったら、塩、撒いたほうがいいっすよ』って」
グラスの中で、氷がひとつ、音を立てて割れた。乾いた音だった。まるで、その瞬間を狙っていたかのように。
「それって、いたってことっすか」
テーブルの端から漏れた声は、冗談のつもりだったかもしれない。けれど、誰も笑わなかった。
Mさんも、それには応えなかった。ただ、指先でテーブルの縁をなぞりながら、少しずつ話を続けた。
「俺も聞いてん。『いたんか』って。そしたらK、『いや、わかんないっすけど』って、濁して」
そのときのKの口調も、たぶん引っかかっていたのだろう。
笑い話にするには、間が深すぎる。ひとつの間が、そのまま冷たい床にまでつながっていた気がする。
全員、口には出さなかったが、同じ想像をしていた。あの黒いワンピースの女は、もしかしたら──というやつだ。
「女のこと、Kに直接聞いてみたらいいんじゃないですか」
誰かが軽く言った。けれど、その言葉が空気を撫でた瞬間、店の音が妙に遠くなるのを感じた。
俺はグラスの底を見ていた。沈んだレモンの皮が一枚、ひっそりと水面に貼りついている。その輪郭だけが現実の重みを残していた。あとは、どこか、少し浮いているように感じた。
Mさんがポケットからスマホを取り出す。
「──わかった」
小さくそう言って、スピーカーモードに切り替えた。
着信音は、やけに小さかった。けれど、それが逆に耳に残った。その音を聞いていると、ジョッキが触れ合う音や厨房からの金属音が、少しずつ周りから剥がれ落ちていく感覚があった。
音が、音じゃなくなっていく。居酒屋のざわめきが膜になり、その内側に、電話の呼び出し音だけが残っていた。
「……はい、もしもし」
Kの声が出た瞬間、その部屋に温度が生まれた。こもっていて、少し遠いが、それでも生きた感触がある。
Mさんは、いつもの調子を装って話し始めた。
「今日はお疲れさん。いま打ち上げ中やねんけど」
けれど、その軽さは、ほんの数秒しかもたなかった。
「今日のライブのあと、“帰ったら塩撒け”って言ってたやろ」
その一言で、場の空気がまた変わる。
Kが「ああ……はい」と返すまでに、すこしだけ沈黙があった。
「それって、やっぱり“いた”ってことか。なんか、おったってことなんやろ」
今度は、もっと長い間が空いた。その間に、冷房の音がやけにうるさく響く。冷たい風が、肌を舐めるように吹きつけていた。
「……いや、まあ」
Kの声が戻ってくる。取り繕いも、強調もない。ただ、そのままの声が置かれた。
Mさんが、すこしだけ早口になる。
「いや、今日の客席に、ちょっと変な子おってん。黒いワンピース着てて、ずっと無表情で。俺のときだけ拍手してたって」
たぶん、冷静に話そうとしていた。けれど、焦りが言葉に縫い目のように出てしまっている。同じ話を、微妙にずれた順番で、何度も繰り返していた。
けれど突然──
「言わんかってんけどな」と言って黙り込んだ。
全員がMさんを見ていた。額には汗が滲んでいる。それを見て、自分も汗ばんでいることに気がついた。
「俺、ずっと目ぇ合っててん。その子、俺見てめっちゃ笑ってた」
そのときにはもうMさんから表情が消えていた。そのまま何かに引きずられるように、次の言葉を繋いでいく。
「みんな無表情やったって言うけど、ずっとな。笑ってた」
テーブルの上に置かれた誰かの指が、わずかに震えていた。いや、そう見えただけかもしれない。あの瞬間は、理解よりも先に、空気そのものが歪んでいたんだと思う。
Kの返事は、なかなか返ってこない。その間にも、沈黙はゆっくりと厚みを増していく。店のざわつきも、時間の流れも、じわじわと消えていく。
「……あの、これ……言うつもりなかったんですけど」
沈黙に、ようやくKの言葉が置かれる。ただ、その“ですけど”の語尾に、なにか重たいものが引っかかっていた。
「その人……幽霊かどうかはわからないんですけど」
Mさんが、息を飲むように短く応える。
「……うん」
Kは、もう迷っていなかった。言葉を選ぶより先に、言葉がこぼれてしまったように
「あの女の人、手の甲で拍手してたんですよ」
一瞬の間。
「“裏拍手”って言うんです」
場の空気が、またひとつ深く沈んだ。
言葉の意味を理解するより先に、全員の身体が“それ”を感じてしまっていた。
「呪いって言われることもあるんすけど……あれ、ほんまは死人がやるやつで」
声がもう一度、低くなる。その声が落ちていく先に、俺たちは抵抗できなかった。
「死人って、服を裏返しに着たりするじゃないですか。生きてる人とは、逆のことをするって言われてて……だから、拍手も、手のひらじゃなくて、手の甲で。音は鳴らない。音を鳴らしちゃ、いけないんですよ。あっち側の存在やから」
誰かの息を吸う音が、はっきりと聞こえた。それが自分の呼吸じゃないことに、なぜか確信があった。
喉の奥にまとわりつくような湿り気。微かに鉄のにおいが混じっていた。
ジョッキの氷がひとつ、音を立てた。カランという、たったそれだけの音が、全員の聴覚をひとところに引き寄せていた。
「だから、言ったんすよ」
スピーカー越しに、Kの声がふたたび響く。
「帰ったら、塩撒いてくださいって。あと、盛り塩もしたほうがいいです」
言葉が止まらないというより、止めようとしていない口ぶりだった。
「次の日、盛り塩が湿ってたら、ちょっと危ないかもです」
一瞬、Kの呼吸がマイクに触れた。
「次の日とかに色が変わってたら。黒とか、赤っぽくなったりしたら」
その言い方が、どこか現実味を避けていた。逃げるようでいて、逃げきれていない。まるで自分自身に言い聞かせるような調子だった。
「……なったら、どうなるん」
Mさんの声が、それを断ち切るように届いた。言葉というより、感覚の裏づけを確認するような言い方だった。
ほんの短い沈黙。ひと呼吸ぶんの重さが空気に沈む。
その隙間に、Kの声が、ぽとんと落ちた。
「──すぐ、お祓いに行ってください」
その瞬間、重いものがすべり落ちるように、時間が止まっていた。
聞こえるはずの音たち──店員の掛け声、厨房の金属音、遠くのテーブルの笑い声──それらがなぜか、音として成立しなくなっていた。
耳に届いているのに、感覚に触れてこない。触れようとした瞬間にすり抜けていく。そんなふうに、空間の密度が変わっていた。
自分の体のなかだけが、まだ現実を持っていた。
音も、意味も、光も、全部が一歩先に進んでしまって、自分だけが取り残されたような感覚。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。けれど、何かを理解していた。体温のさらに奥で。思考より先に。
知りたくなかった。けれど、知ってしまった。その境界をまたいだ感覚は、意外なほど静かだった。
けれど、確かにある。
胃の奥とか、爪の間とか、まぶたの裏側とか──そんな、普段は意識の届かない場所にだけ残る種類の理解。
言葉ではなく、体のどこかに滞留する“気づき”が、じわじわと膨らんでいた。
もう戻れない。誰もそうは言わなかったけれど、その実感だけが、テーブルの上に沈んでいた。
そして、Mさんが動いた。突然というより、順番が巡ってきたみたいな自然さで。
遅れるように、ぽつりと一言だけ置く。
「……塩、あるか」
その言葉だけが次の行動を示していた。
焦りもなければ、演出もない。ただ日常の手続きとして、そのままテーブルの中央に手を伸ばした。
指先が触れたのは、居酒屋によくある調味料入れ。木製の、あの何の変哲もない筒。
そのとき、たしかに一瞬、こちらを見た気がした。
けれど、その目が向いていたのは、俺たちだったのか。それとも、俺たちの背後にいる“誰か”だったのか。
Mさんは、それをゆっくり持ち上げた。無言のまま。
そして、自分の頭に──ザッ、と、振りかけた。
誰も声を出さなかった。冗談というには、あまりにも丁寧だった。
ただ、何かの儀式が今、確かに執り行われたのだという理解が、少し遅れて胸に追いついてくる。
次の瞬間、叫びが上がった。全員が、ほぼ同時に。
Mさんの額から、前髪の隙間を縫って、赤い粉が落ちていた。
頬を伝い、Tシャツの襟元にまで、こぼれ落ちる。粉は、赤くて、少し黒くて、異様に細かかった。
そのとき、先に動いたのは理性じゃなかった。理解よりも速く、現実のほうが先に反応していた。
──それは、七味だった。
Mさんの頭にかけられたのは、霊を祓うための塩ではなく、日本独自のミックススパイスだった。
それに気づいた瞬間、場の何かが弾けた。
「まあ七味って発汗作用あるしな」
Mさんはそう言いながら、ジョッキを片手に、自分の肩から滑り落ちた赤い粒をつまみ上げていた。
それを何のためらいもなく口に運んで、「案外いけるわ」とか言い出す。
誰も止めなかった。止める理由も、なかった。
そのあと、各自ばらばらに帰路についた。
湿った風が、首筋をなめるように通りすぎる。ふだんより少しだけ音の少ない夜だった。
家に着いて、鍵を開けたところで足が止まった。
靴を脱いで、そのまま台所へまわっていた。小皿に塩をひとつだけつまむ。
あの日は、結局なにも起こらなかった。そしてその後も、今も、なにも変わっていない。
Mさんに何かが起きたとは聞いていない。ただ、一ヶ月ほど経った頃にバイトを辞めた。それが何かの兆しだったのかどうかは、わからない。
ときどき思うことがある。
たぶん「なにも起こらない」状態を保つためには、ああいう夜が必要なのだと思う。
誰かが、うまく名前のつけられない気配に触れて、ちょっとだけ怖がったり、変なタイミングで笑ったり。
そういう消費のしかたを、夜がこっそり欲しがっているような気がする。
ささやかな取り引きだ。
「ある」と「ない」のあいだに境界線を引くための、小さな手数料みたいなもの。
あの拍手の意味は、今でもわからない。
けれど、あの夜、彼女がMさんを見ていた時間だけは、そこに確かに“あった”。
手の甲で叩かれる、音のない拍手。
あれは、たぶん返事だったんじゃないかと思ってる。音を出せない存在が、それでも何かを伝えたくて残した、かすかなかたち。
がんもどきも、ときどき似たような返事をしてくる。
空気がわずかに揺れたり、妙に温かい気配が背中をなでたり。
なにも言わない。なにもしてない。
でも「いるよ」とだけ、置いていく。音も言葉もないのに、その存在だけが、俺の中にうっすらと滲む。
そんな微かな反応こそが、ほんとうの返事なんじゃないか。そう思うようになった。
拍手のことを思い出したのは、さっき皿を見たときだ。がんもどき用の皿が、ほんの少し傾いていた。
ラップの隙間から、キャットフードが、わずかに減っているようにも見えた。
風のせいかもしれないし、別の猫が来たのかもしれない。あるいは、俺が寝ぼけて食べたのかもしれない。
まあ、どれでもいい。
俺はもう一度、皿に餌を盛る。
それはたぶん、ここにこうして文章を置くのと同じことだ。
世界のどこかで、誰かが──何かが、そっと返事をしてくれるかもしれない。
そう信じることを、別に、馬鹿にされても構わないと思っている。
