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​言葉のいらない宇宙の旅。『マンダロリアン&グローグ』が映画の原点(アトラクション)に立ち返るまで

※本記事はストーリーの核心的な
ネタバレを含みませんが
作品の演出や作風について言及しています

​映画館の暗闇の中で『マンダロリアン&グローグ』を観ながら、私はある「奇妙な静けさ」に圧倒されていた。いや、もちろん音響は大迫力だし、画面の中では爆発が起き、宇宙船が飛び交っている。しかし、そこにある「物語」の構造は、驚くほど静かで、シンプルだ。

​一見すると、これはハリウッドが大衆向けにわかりやすくチューニングした、引き算の脚本のように思えるかもしれない。しかし、私の目にはまったく違う景色が映っていた。これは退化ではない。むしろ、映画というメディアが誕生した瞬間の興奮——あのジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902年)のような、「無声(サイレント)でもストーリーがわかる、純粋な視覚アトラクション」への幸福な先祖返りなのではないか。

​思えば、近年のスター・ウォーズ(SW)を巡る状況は、どこか息苦しいものがあった。

ジョージ・ルーカスという唯一神が創造したエピソード1〜6が、フォースの継承と共和国の盛衰、そしてスカイウォーカー家の悲劇と和解を描いた、SW世界の巨大な“正典神話”だったとするなら、その後に作られたエピソード7〜9(シークエル)は、商業的な板挟みの中で迷走したビジネスの産物だったように思える。新たなファンの獲得と、肥えた古参ファンの納得。その二兎を追った結果、レイやカイロ・レンといったキャラクターの魅力は描ききれず、物語は空中分解したと感じた観客も少なくなかった。多くの観客にとって、物語は統一感を失ったように映ったのではないだろうか。
だからこそ、本来は恐らく制作したかったであろう「エピソード10〜」の更新はなく、現在のSWは本編ではなく、その隙間を埋める「福音書」や「歌集」としてのスピンオフ(外典)に頼らざるを得なくなったのではないだろうか。

​本編という名の巨大な神話が行き詰まった、そのどん詰まりの銀河を救ったのが、皮肉にもこのスピンオフの申し子であるマンドーとグローグのコンビだった。

​彼らはなぜ、これほどまでに私たちの心を掴むのか。私は、その秘密は、SWの原点である「日本文化の遺伝子」への回帰にあると感じた。

​かつてルーカスが黒澤明の『隠し砦の三悪人』からSWの骨組みを作ったように、『マンダロリアン』の制作者たちがベースに選んだのは、紛れもなく
『子連れ狼』だ。

​鉄のマスクで素顔を隠した寡黙な賞金稼ぎと、まだ言葉を話せない、よちよち歩きの赤ん坊。彼らが紡ぐのは、銀河の命運をかけた壮大な政治劇ではない。ただ「行きずりの、けれど絶対に裏切れない、たった一つの小さな命を守るために己のすべてを賭ける」という、泥臭い義理、人情、任侠劇だ。

​日本の時代劇が「背中で語る」ように、この2人にはセリフが必要ない。マンドーはマスクのわずかな角度で葛藤を示し、グローグは耳の動きと大きな目の見開き方だけで100%の感情を表現する。この「身体言語(ボディランゲージ)」の圧倒的な雄弁さ。

​言葉を必要としないからこそ、映画は複雑な「設定の解説」から解放される。私たちは劇場のシートに身を委ね、奇妙なクリーチャーに驚き、目まぐるしく展開されるアクションに息を呑み、テーマパークのライドに乗っているかのように、純粋な映像のダイナミズムを「浴びる」ことができる。かつて世界中の人々が、言葉の壁を超えて『月世界旅行』の動く映像そのものに熱狂したように、本作は映画本来の「見世物(アトラクション)」としての快楽を現代の最高峰の技術で蘇らせたのだ。

​マーティン・スコセッシ監督は、現代の巨大なアメコミ映画群を「あれはシネマではなくテーマパーク(アトラクション)だ」と批判的に評した。

​しかし、本作における「アトラクション化」は、むしろ最大級の賛辞として受け取るべきだろう。肥大化し、設定に縛られ、身動きの取れなくなった「神話(シークエル)」の呪縛を解き放ち、誰もが直感的にワクワクできるおもちゃ箱へとSWを引き戻したこと。言葉を捨て、日本的な叙情と、純粋な視覚的興奮に命を懸けたこと。

​神話を語るのをやめ、最高の「アトラクション」に徹したことこそが、迷走する銀河に福音をもたらした、このスピンオフの潔くも最も幸福な勝利なのではないかと、私は感じた。


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