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【読書感想】猫のゆりかご/カート・ヴォネガット・ジュニア(伊藤典夫 訳)

“よし、世界を滅ぼしてやる”
自殺しようとするとき、ボコノン教徒は必ずそう言うんだよ

『猫のゆりかご』 ハヤカワ文庫SF P.301

リチャード・フラナガンの『第七問』の中で、ちょっとだけ触れられていた『猫のゆりかご』。
作者のカート・ヴォネガットはいかにしてこの小説の着想を得たか、がそこには書かれていた。僕はヴォネガットについても全然詳しくないので、初めて知る話ばかりだった。へえ、そうだったのか。フラナガンに感謝。

『第七問』の重要な登場人物、H.G.ウェルズは、1930代初めにゼネラル・エレクトリック社の研究施設を訪れる。見学の案内人となったのは、同社所属のノーベル化学賞受賞者アーヴィング・ラングミュア。そのとき、こんなやり取りがあった。

〈ラングミュアはウェルズに、ごく小さな氷一個で海全体を凍らせることができるという物語のアイディアを売り込んだが、ウェルズは断った。〉(『第七問』より)

ウェルズの代わりに、この恐るべき氷のアイディアをもらい受けたのがヴォネガットだった。兄がゼネラル・エレクトリック社でラングミュアのアシスタントをしていた経緯があり、それを知ったのだ。
そして第二次世界大戦の時代を越えて書かれたのが、1963年発表の『猫のゆりかご』。
この小説には「アイス・ナイン」という触れたもの全てを一瞬に凍らせる「氷」が登場する。発明者のフィーリクス・ハニカー博士はラングミュアをモデルにした登場人物だと、フラナガンは『第七問』に書いている。

というわけで、ン十年振りに『猫のゆりかご』を読み返した。

主人公の「わたし」は男性であり、物語の始まりの段階では十分に若い。彼は作家で、広島に原子爆弾が投下された日にアメリカの重要人物たちが何をしていたのかを調べて、『世界が終末をむかえた日』というタイトルの本を書こうとしていた。
日本には、太平洋戦争開戦の日と終戦までの数日に、政治家、軍人、作家たちが何をしたかを調べてまとめた山田風太郎の『同日同刻』という本があって、それを連想した。自分が知らないだけで、他にも同じようなテーマを扱った本は現実にあるのだろう。

で、
『世界が終末をむかえた日』のために「わたし」が最初にやったのは、原子爆弾の生みの親のひとりであるハニカー博士の息子ニュートに手紙を出すことだった。ニュートは「わたし」と同じコーネル大学の出身で、比較的連絡の取りやすい人物だったのだ。やがて返事が届いて、「わたし」はそこからハニカー博士の3人の子息と関わっていくことになる(この時点で、ハニカー博士自身はすでに故人となっている)。
「わたし」はまだ知らないのだが、3人はハニカー博士からアイス・ナインを受け取っていた。45.8℃という高い融点を持つ青白色の「氷」。それは〈フィーリクス・ハニカーが、正当な報いを受けてこの世を去るにあたって、人類に遺した最後の贈り物だった〉。(『猫のゆりかご』から)

そして『猫のゆりかご』のクライマックスで、アイス・ナインはその力を十分に発揮することになる。
『第七問』で、フラナガンはこう書く。
〈ヴォネガットは、トーマス・フィアビーが自動装置のスイッチを押して広島に原爆を投下した日に「アメリカの重要人物たち」がなにをしたのかを記録した、『世界が終わった日』という本を語り手が執筆する予定を立てているところから書きはじめ、半年後に数匹の蟻と数人の人間だけを残しすべての生き物にとって多かれ少なかれ世界が終末を迎えたところで書き終える。〉

つまり、『猫のゆりかご』は人類の黄昏を描いた終末小説のひとつであり、そういえば20世紀後半、世紀末が近づいていく中で、世界の滅亡を描いたフィクションをいろいろと読んだり観たりしたなあと思い出した。

さて、『猫のゆりかご』にはフラナガンが触れていないもう一つの重要なファクターがあって、それは架空の宗教である「ボコノン教」だ。

ボコノン教は、サン・ロレンゾというカリブ海に浮かぶ島で生まれた宗教だ。同じくカリブ海にあるトバコ島(作中では「トベーゴ島」と表記)に19世紀末に生まれたボコノンが教祖。「ボコノンの書」という聖典があり、そこには〈本書には真実はいっさいない〉と書かれている。また、ボコノン教の賛美歌は「カリプソ」と呼ばれる。知っている人も多いと思うが、カリプソというのはトニダート・トバコで生まれた大衆音楽だ。ドラム缶から作られた打楽器スティールパンの音色が楽しい、明るく切なく政治的な主張も含まれた、実在する音楽ジャンルである。それがボコノン教では宗教歌となる。

「わたし」は、作中でサン・ロレンゾに渡り、やがてボコノン教徒になる。
『猫のゆりかご』は全ての出来事が終わった時点から過去を振り返って書かれた小説なので、ボコノン教徒としての「わたし」の視点が全編を貫いている。
「ボコノンの書」の内容や「カリプソ」の歌詞が何度も引用され、それらはどれもブッ飛んでいながらも人間の真実を突いていて、教義の全てが嘘っぱちと言いながらも、ボコノン教はすごくいい線を行っている宗教なのではないかと思わされる。

結局はアイス・ナインによって、カリプソ第百十九番で「みんな遠くに行っちゃった」と歌われている通りの未来がやって来るのだが……。

みんな遠くに行っちゃった後で、「わたし」がふと思い出したのは、むかし読んだ、タスマニア原住民の話だった。
〈白人の目には、あまりにも無知な彼らは人間と映らず、イギリスから囚人として送られてきた初期の植民者たちは、気晴らしに彼らを狩った。そのため原住民は生きる興味を失い、子供を生まなくなってしまった〉

もちろん、この記述をフラナガンが見逃すわけがない。
〈だれであれ人が世界の終焉に直面するときは、タスマニアのアボリジナルの人々が避けがたく例として挙げられるようだ〉と、『第七問』には書かれている。
これもまた「連鎖反応」ってやつなのだろう。

猫のゆりかご(CAT'S CRADLE)というのは、英語で「あやとり」のことなのだそうです。文庫の表紙イラストが示すとおりに

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