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第12章 古い前提を問い直した日

――生活を言葉にした日――


 それまで私は、生活の中で起きたことを、あえて言葉にしないでいた。言葉にした瞬間、それは説明ではなく、役割を固定することになる気がしていたからだった。
 
だが父の死後、私は初めて逆の可能性を考えた。

言葉にしなければ、生活の前提そのものが、存在しなかったこととして扱われてしまうのではないか、と。
 
畑で起きたこと。家の中でのやり取り。小さな違和感や、すれ違い。それらを一つ一つ言葉にしてしまえば、関係は壊れてしまうかもしれない。そう思っていた。けれど、黙って続けているだけでは、前提は残らないのかもしれない。
 
だから私は、一度だけ、言葉を残すことにした。
 
争うためではなく、生活の前提を確かめるために。
 
その言葉を、私は家族の前で読み上げることになる。
 
父の死亡届を出したとき、市役所で渡された冊子は薄かった。けれど、その薄さの中に、期限が詰まっていた。年金。保険。銀行。名義の変更。解約。納骨と初盆の手配。一つひとつは小さな手続きでも、期限は待ってくれない。私は、やるべきことを順番に書き出し、終えたものから印を付けていった。書き出した項目は七十近くになり、メモは五枚になった。
 
これらの手続きを、母が一人で担うことは難しかった。母は、細かな文字を自力で読むことが、難しくなっていた。書類の小さな欄を確かめ、制度の言葉を理解し、窓口で署名する。その一つ一つに、そばで読み上げ、わかりやすい言葉に置き換えて説明する人が必要だった。母自身も、多くの手続きを私に頼んだ。父も生前、病院の窓口や家の段取りについては、私に頼むことが多かった。

最後の面会で父から聞いた、

「後のことを頼む。」

その短い言葉には、こうした雑多な手続きも、暮らしを続けるための段取りも、すべて含まれているのだと、私は受け止めていた。
 
兄も弟も、これらの手続きについて話題にすることはなかった。手を貸してくれることもなかった。聞こえてきたのは、四十九日より前に父の遺品に触るな、という怒りの言葉だけだった。
 
本当は私も、四十九日を迎えるまでは、父の遺品には触れたくなかった。けれど、期限は待ってくれない。母と一つずつ確認しながら、必要な範囲で整理を始めた。財産を確認し、目録を作り、五百万円ほど残っていた借入金も返済した。生活が倒れないために、必要なことだった。
 
だから、四十九日の報告は、ことわりから始まっている。
 
「期限のある手続きが多かったので、母と確認しながら、整理を始めました。どうか、ご理解ください」
 
四十九日の法要は、寺で執り行われた。
 
法要を終え、私たちは実家へ戻った。居間には、母、兄、弟、それぞれの配偶者がそろっていた。
 
私は、あらかじめ用意してきた文章を取り出した。手続きの報告のためだけではない。家族に、どうしても伝えておきたいことがあった。
 
紙を広げたとき、居間の空気が少し静かになった。誰も言葉を挟まず、視線だけが紙の上に集まった。私は、その静けさの中で読み始めた。
 
手続きの報告から、話は家族のことへ移っていく。
 
私は、サザエさんの家族を目標にしてきた。言い合いがあっても、最後には同じ食卓へ戻れる家族。特別な理想ではない。けれど、今の私たち家族は、そこから遠く離れてしまっているように感じていた。
 
父が亡くなってから、私は、その理由を毎日のように考え続けた。そして、一つの答えにたどり着いた。
私たちは、互いの価値観を「分かっているはずだ」という前提のまま、それぞれの価値観を押しつけ合ってきたのではないか。
自分では伝えたつもりでも、相手は違う受け取り方をしている。その積み重ねが、少しずつ距離をつくってしまったのではないか。
押しつけられた側は、自分を否定されたような、孤独な気持ちになる。だから私は、家族だからこそ、言葉にしなければ伝わらないことがあるのだと思った。
 
そして私は、「跡取り」という言葉について触れた。
 
父は生前、家族の前で、私を「跡取り」と呼んでいた。兄は、結婚のときに婿養子となり、実家の資産は相続しないことを、両親と話し合って選んだ道だと聞いていた。だから父の中では、私がその役割を担うという前提が、ごく自然に成り立っていたのだと思う。
 
父が亡くなってからは、その前提そのものを否定するような言動が続いていた。そこで私は、自分の考えを書いた。

私は、父と母の子の一人として、寄り添い、生活を支え、家族みんなが幸せに暮らせるようにしていきたいと思っている。けれど、それは、一般に考えられている「跡取りさん」という意味とは一致していない。

私は、その言葉を選ぶとき、とても慎重だった。

私たち夫婦には、子どもがいない。
弟夫婦にも、子どもがいない。

古い意味での「家の継承」は、もう、誰か一人の努力だけで成り立つものではなかった。そして、その現実は、誰か一人の責任でもなかった。だから私は、そのことを責めるような言葉にはしたくなかった。誰かを傷つける言葉にも、したくなかった。

だから、問い掛ける形を選んだ。

「もし、『跡取り』という言葉の意味を尊重し続けたいのであれば、それを実現できる方に、お願いしたい」

それは、誰かを責めるための言葉ではない。誰にも、その現実を背負わせたくなかったからこそ、私はそう書いた。

それは、私が生活を手放すという意味ではない。責任から逃げるという意味でもない。私は、母のそばで暮らしを支え、農地を管理し、父から受け継いできた日々の段取りを、これからも続けていくつもりだった。

ただ、その暮らしまで、「古い意味での跡取り」という一つの言葉へ押し込めないでほしかった。生活は、もっと静かで、もっと多くの積み重ねによって成り立っている。私は、その前提を、一度だけ、家族みんなで置き直してみたかったのである。

私は、自分の至らなかったことについても書いた。謝るべきことは、謝ろうと思った。その上で、最後に一つだけお願いを書き添えた。
 
家族だから分かっているよね、ではなく、家族だからこそ、思いやりを持って接してほしい。
 
そして――

「お母さんに、声をかけてほしい」

「お母さんの気持ちを、分かってあげてほしい」

そうすれば、母の孤独感や疎外感は、きっと和らぐから。私は、そう書いた。

私が家を建ててからも、私たち夫婦は、買い物や母の通院のために、日常的に実家へ立ち寄っていた。父の入院中も、退院後の生活も、できることを一つずつ続けてきた。

一方で、弟夫婦がタイから帰国して以降、父が亡くなるまでの間、兄も弟も、盆や正月に家族そろって実家へ来ることは、ほとんどなかった。

そのことを、父も母も、ときどき寂しそうに私へ話していた。

だから私は、母のことを、私一人で支えるという話をしたかったのではない。家族みんなで気にかけ、声をかけ合える関係であってほしい。その願いを伝えたかった。

私は、家族を手放したかったわけではない。
役割を手放したかったわけでもない。

家族のことを、誰か一人の役割にするのではなく、みんなで支え合える家族でありたかった。

読み終えて、私は紙を置いた。

部屋は静かだった。

その願いが、家族にどう受け止められたのか、今の私にも分からない。もしかすると、私は、「跡取りを放棄した人」として受け止められたのかもしれない。けれど、私の中では違っていた。私は、役割を捨てたのではない。生活を捨てたのでもない。父と母を支えながら続けてきた暮らしは、これからも続けるつもりだった。

ただ、もう現実とは重ならなくなっていた「跡取り」という一つの言葉だけを、生活から切り離して考えてほしかった。そのことを、家族へ伝えたかったのである。

あの日、私は初めて、生活を言葉として残した。

争うためではなかった。誰かを責めるためでもなかった。生活の前提を、もう一度、家族みんなで確かめたかっただけだった。

けれど、その言葉は、後になって、「記録」として扱われることになる。生活が記録へ変わり、記録が主張へ変わっていく。

それが、その最初の境界だった。

法廷では、

生活の前提も、

一枚の紙として扱われる。





🌸この記事は連載
『それでも、家族と暮らしたかった』
の一章です。

家族の生活が、ある日
「証拠」と呼ばれるものへ変わっていく。

その過程を記録しています。


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