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第27章 生活は、いつ「成立した契約」へ変わったのか

――契約日と遺言日、その前に重なっていた条件――


母が相続分譲渡契約書に署名押印したその契約は、一日の出来事として書面に残されていた。

署名も押印も存在し、書面は二通作成されていた。その二通には、母の氏名の誤記が残されていた。

書面の上では、その契約は一日の出来事として整理されていた。

だが生活の側から見れば、その一日は、それ以前から重なっていた条件の上に置かれていた。

ただ、私がここで見直したいのは、誤記そのものではない。

その契約が成立したとされる時期に、どのような生活条件と医学的条件が重なっていたのか。その一点だった。

父が亡くなった後、母の体調は少しずつ変化していった。咳が増え、息苦しさを訴える時間が増え、以前とは違う疲れ方をする日があった。

その契約の、三か月前。

私は一枚の紙を書いていた。

題は、「家族皆が心穏やかに明るく元気に生きるために」。

書き出しは、問いだった。

「この数年、家族皆が心穏やかに明るく元気に暮らす様子を見たことがあったでしょうか?」

私は、それぞれの立場になって想像してほしいと書いた。母の立場。兄の立場。妻の立場。

そして、私が考えた相続の案を、その紙に書いた。

私が受け取るのは、家と、その隣の農地。弟が受け取るのは、弟の家と、その隣の土地。それ以外の農地や不動産は、すべて弟に託してほしい。

弟が、父の米作りを続けたいと言っていたからだった。米を作るには田が要る。農機具が要る。それをしまう倉庫が要る。

預貯金は、母が。実家の土地は、兄が望むなら、兄が。

法定相続に同意した自分の判断は間違っていたと、私はその紙に書いた。それぞれが自分の目的を果たそうとする分け方では、家族は続かないと思ったからだった。

あの紙の中で、私はまだ、弟と書いていた。

私はその紙を印刷し、四人分を用意して、話し合いの日の初めに配った。

母には、文字が小さすぎた。白内障の手術のあと、細かな字を読むことが難しくなっていた。

父が亡くなってから、私は母のそばで多くの手続を進めてきた。銀行、農協、保険、年金、名義の変更。そのたびに私は、書類を読み上げるだけでなく、母に分かる言葉へ置き換えて説明していた。

だから、読み上げるつもりだった。

その機会は、なかった。

説明は、途中で遮られた。

母に、その紙の中身が伝わることはなかった。

三か月後、母は、その案を知らないまま契約書に署名した。

相続分譲渡契約が作成された頃には、その変化は、生活の中でもはっきり感じられるものになっていた。

症状を緩和するため、医療用麻薬、いわゆるオピオイドの定時投与と、レスキュー薬の使用が始まっていた。

医療用麻薬の使用自体は、適切な医療だった。母の苦痛を和らげるために、必要なものでもあった。

その前後で、母の生活がどのように変化していたのか。その変化が、どのような条件と一緒に重なっていたのか。そこだった。

呼吸状態は、安定しているとは言い難かった。食事量も落ち、体力も少しずつ低下していた。

炎症反応や栄養状態、電解質の変動といった条件も、その時期には重なっていた。そこに、医療用麻薬の使用が重なっていた。

それらは、一つ一つを取り出せば、ただちに何かを決めるものではない。

けれど臨床の中では、認知や判断の安定性に影響し得る因子として、注意して見るべきものだった。

さらに、症状の変動に応じて、医療用麻薬の薬剤調整も行われていた。疼痛や咳嗽は緩和されていた。

けれど、レスキューとして処方されていた頓服薬の使用は続いていた。

母は私に、「眠れないから」「心配だから」といった理由で使っていることを話していた。

その薬は、「咳がひどい時に使用する」という説明で処方されていた。

だが生活の中では、必ずしもその説明通りではない理由で、使用されている場面があった。

そのこと自体もまた、生活の中で観察される状態の一部だった。

私は薬剤師として、医療用麻薬が、痛みや苦しさを和らげる一方で、状態の揺らぎとして現れる場面があることを知っていた。

同時に、私は息子だった。母が混乱の中で苦しむことなく、母らしい生活を続けてほしいと願っていた。

そのため私は、日常の範囲で母の様子を見守っていた。

表情。動作。返事の間。同じ話を繰り返す回数。薬を使う理由の変化。

それらを、生活の中で確認していた。

それは医療行為ではなかった。生活の中で可能な範囲での観察だった。

診察室の一時点ではなく、日々の連続の中でしか見えてこない種類の変化がある。

その変化は、ある日突然、一つの症状として現れるものではなかった。

落ち着いて見える日もあれば、反応が揺らぐ日もある。普通に会話できる日もあれば、不安が強くなる時間もある。

同じ話を繰り返す日。薬を使う理由が、説明と少しずれていく日。

私は、そうした小さな変動が、日々の中で積み重なっていく過程を見ていた。

だから私は、契約が成立したとされる「その日」だけを、切り離して見ることができなかった。

そして――

その観察が可能だった時間は、ある日を境に、静かに途切れた。

実家の鍵が変更されていた。

それまで鍵を使って出入りしていた扉は、もう開けることができなかった。

鍵が合わなかった。

それだけのことだった。

私は、その変更について事前に知らされていなかった。

もう一つ、それまで窓越しに見ることができていた部屋の窓に、ミラーフィルムが貼られていた。

母が日中を過ごしていた部屋の中は、外からは見えなくなっていた。

それまで確認することができていた生活の様子は、その日を境に、視界から途切れた。

私が直接見て確認できる時間は、静かに失われた。

見えていた生活は、そこで途切れた。

それまで連続していた観察が、その時期を境に途切れたという事実を、

順番のまま置いておきたい。

日々の変化は、続けて見ていなければ分からない。

そして私は、その「続けて見る」という条件を、失っていた。

それまで日常の延長として続いていた、母に会い、様子を確かめるという習慣が、ある日を境に途切れた。

そのように観察の連続が失われていた時期に、書面の上では、契約が一日で成立したものとして置かれている。

少なくとも、その時期に起きていたのは、そういう変化だった。

その状態は、私が見ることのできなくなった後も、続いていた。

母は、体調が悪化するたびに入退院を繰り返していた。

呼吸苦での救急受診。胸に溜まった水を抜く処置。そのたびに、レスキュー薬の使用も増えていった。

十月に入ると、頓服薬を一日に何度も使う日が記録されるようになった。夜中に何度も薬を求める日もあった。

同じ説明を繰り返しても、うまく伝わらない場面も記録されていた。

そして、遺言書が作られたとされる十一月二日。

その前の晩から明け方にかけて、母は三度、頓服薬を使っていた。深夜零時半。午前四時前。そして明け方六時過ぎ。

眠れないまま、薬を使いながら、朝を迎えていた。

その同じ日に、母は転倒していた。

平穏で、落ち着いた状態で交わされた一日だったとは、私には思えなかった。

遺言が作られた八日後から九日後にかけて、母の記録には、こんな言葉が残されていた。

「出口は??」

病室の壁に向かって、出口を探して歩く姿も記録されていた。

カルテには、つじつまの合わない発言があったと記されている。

その数日後に行われた評価では、認知の面で大きな問題は見当たらないとされていた。

だが、症状というものは、その日その時によって、大きく揺れ動く。

母には、良い時間帯もあれば、そうでない時間帯もあった。会話が成り立つ日もあれば、同じ話を繰り返す日もあった。

離れた日の記録をもって、契約や遺言が交わされたその瞬間を、代わりに語ることはできない。

契約は、

書面の上では、

一日に成立する。

だが、

その一日は、

真空の中に置かれていたわけではない。

その前には、

続いていた時間がある。

重なっていた条件がある。

そして、

見えなくなっていた生活がある。

届かなかった言葉がある。

順番が変わると、

意味も変わる。

だから私は、出来事の順番だけは手放さない。

何がその一日に先立っていたのか。何がすでに失われていたのか。

その順番を外したままでは、「成立した日」という一点だけでは、見えてこないものがある。







🌸この記事は連載
『それでも、家族と暮らしたかった』の一章です。

家族の生活が、ある日
「証拠」と呼ばれるものへ変わっていく。
その過程を、順番のまま記録しています。

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