見出し画像

5月:坂口安吾「堕落論」と制度の網目からすり抜ける人たち

 5月の面白かった本とか映画とか。
 4月にサボっていた放送大学の講義を受けたり、非小説本を微妙に読みかけて中断したりで読み終えた本や映画は少なかった。

 放送大、誰でも入れるから講義もそこまで難しくないだろうと正直舐めてました。難しい講義の「必要な前提知識なし」は嘘すぎる。

 内容のネタバレがあります。


映画「廃用身」

 あらすじとしては完全麻痺で動かなくなった四肢(劇中独自用語としてこれを「廃用身」と呼ぶ)について、切断しちゃったほうが身体が軽くなるし、無駄な場所に血液回さなくてよくなるし、いいことしかなくね!? とデイケア専属外科医の漆原は老人の四肢を切り落としまくる。
 もちろん本人同意の上、切断する条件なども定義しており切断された当事者たちも施術を喜ぶが、徐々に喜ばない人も出て来てしまい、なんやかんや。

 直後は本当にいいことしか起きない(自重が軽くなることで褥瘡が治る、車椅子を動かしやすくなる、脳への血の巡りが良くなることで認知症が緩和する)のだが、徐々に「こんなはずじゃなかった」「本当は嫌なのに流れで承知してしまった」と言った人がどんどん出てきて「あかん施術だった……」となっていく感じなのですが、安楽死を合法にしたときに起きる問題と完全に同じだなと思いました。


 軽薄な感想としては私は四肢欠損が大好きなので、四肢欠損している人がたくさん観れてめちゃくちゃ嬉しかったです。


 現実と同じに捉えての感想としては、とにかく治療目的でない不可逆な施術を行ったときに起き得る問題例の提示として非常に分かりやすかったと思います。
 私個人としては自分について同状況になったら四肢は切っていいなと思うのですが、切りたくない、切らないほうがいいという価値観も、本当は切りたいと思っていなかったのに同意してしまったという人間が出ることも想像はできます。

 漆原(医者)が最初に片脚を太腿まで切除したのは治療を越えた行為だったし、四肢切断を望む人へは「意識回復を望んでの手術ならすべきでない」と提案すべきだったと思います。
 漆原はASD傾向のある人間として描かれていたと思うのですが、そうした中ではすごく人に寄り添って接していたと思うので、わりと漆原に寄り添って観てしまうところが強かったかも。(作品が望んでいるのはそこではないと思うんだけど、ASD当時者として)
 漆原は誤ってたと思うが、漆原一人が誤ってたわけではなくないですか。漆原は悪くない、間違ってないとは全然言えないけども。
 漆原と同列で物を言って相談できる人に、人の感情への寄り添いの強い人がいたらよかったし、漆原自身にもそういう認識があったらよかったなと思います。
 ベンサムが立てた功利主義をミルが調整したみたいな、そういう定型との橋渡しになるバランサーが必要なのだと思う。

 ASD的な思考機序自体は人間コミュニティに必要なものだと思うので、漆原の施術はともかくとして、漆原が出した結論は間違っていると思うし、悲しいです。
 ソクラテス、カント、ベンサムとか哲学史において不可欠な人間だけどバキバキのASDだと思うし。数学者とかもASDたくさんいるし。

 恐らく制作側も漆原にASD的傾向があることは自覚的に描いているのではないかと思うのですが、メディアが漆原を糾弾する要素にASDが一般に言われる定型句的なものは少なかったように感じるので、そこは多少気を使って製作したのかなと感じました。


 廃用身に限らず、創作物に出てくる突飛なことや残酷なことをする奇抜なキャラってASD傾向のある人がかなり多いので、そのへんASDというものが認識されている現代だとかなり描写が難しいんだろうな~



映画「ひつじ探偵団」

 羊たちの「愚かな民衆」としての描写がコミカルでありながら非常にリアルで面白かったです。
 「つらい出来事や環境」を忘れることを儀式として行っているだけまだ羊たちのほうが賢いまである。現実の民衆は儀式なんて経なくてもつらい環境に目を瞑り、忘れ続け、つらい環境を生み出し強化する人々ではなくつらい環境であることを思い出させる存在に怒りを向ける。

 創作物はわりと人間秩序の理想とするところを描く場合が多く、あまりに愚かすぎる人間を描くと「リアルじゃない(※実際はリアルにそういう人間、それより酷い人間はたくさんいるのだが、創作物として見ていると興ざめしてしまう)」という評になることが多いと思います。
 人間でなく羊たちにすることで、戯画化された愚かな者々が描きやすいというところがあるのかも、と思いました。


 面白かったのですが、勇気を出して行動し考えることを始めたリリー(と元々忘れることをしていなかったモッフル)だけが状況を打開し、忘れることを選んでいた大衆は(リリーに倣って迫害対象を受け入れることにしただけで)特に変わっていないしなにも知ろうとはしていないまま、という結末がうーん……
 映画ウィキッドへの「うーん」と同じ点。まあ民衆に期待するのは難しいというのも分かるのだが……

 個人的にそうした民衆の描写は「崩壊:スターレイル」のオンパロス編の「みんなで英雄になろう!」が新しくてよかったと思います。民衆すべてを当事者にさせている。

 かと言って奈須きのこが書くような(Fate/Grand Order一部七章のバビロニアの民みたいな)民衆も「強すぎるな……」と感じるので難しい。(きのこはバビロニアで強くあれない人間についても言及しているが)



 今月観た映画だと「スティング」もエンタメ映画としておもしろかったです。


随筆「堕落論」「続堕落論」坂口安吾

「堕落論」「続堕落論」「日本文化史観」のみ読みました。
 他は読まなさそうなので一旦「堕落論」「続堕落論」のみの感想。
 特に「続堕落論」がめちゃくちゃ良かったです。

 「堕落論」では「美しい娘が若いままに自死することに尊さを感じてしまうが、生きることとは堕落して老婆として老いさらばえていくこと」的(死ぬほど意訳してます)な話が、「戦争で美しく命散らすことなく生き永らえてしまった国民たちだが、この先堕落することを恐れず生きていこう」的に描かれています。
 こっちは正直あまり刺さりませんでしたが、終戦後憲法すら発令される前にこうした文章を出したことは、坂口安吾にとって国民への激励だったのだろうと感じました。

 「続堕落論」は「堕落論」を踏まえてさらに「堕落する」ことについてを描いています。
 道を過たず清廉であり続けることは望ましく素晴らしいことだが、道を過つ(堕落する)人間はそうせざるを得なかったのであるとともに、そうした存在も必要であり、堕落することは悪ではない、といった意の話であるように読みました。
 道を踏み外すことを「堕落する」と形容してきたが、真実、道を踏み外さないでいることこそ堕落している状態なのだ、といった内容のところもよかったです。

 終盤、制度は網目ですり抜けていく人間がいる、人間よって制度は復讐されるといった話がされています。
 網目をすり抜ける人間とは堕落した者であり(堕落しなくてもすり抜ける人間は勿論いるのですが、それも含めてこの随筆では「堕落する」と形容しているのだと思われる)、そうしてすり抜けた人間たちによって制度は復讐され、改革を余儀なくされるといった内容です。

 この文章が発表された当時で言うと、戦争の経験で心身ともに傷を負い生活が難しくなった人間が多数おり、そうした人々が網目をすり抜けることで存在が可視化され、制度が整えられていくことについてを言っているのだと思います。
 そうした大局の説明とともに、「だから道を踏み外す人間は悪くない」といった慰めと励ましをしているのだと思います。

 戦争に昂る心を描いていたり、かなり極端で露悪的な物言いをしているのですが、それは人間の中にある悪性をも眼差し許した上で、あるものを否定せず、社会全体を人間みんなにとってよくしていくことを考えてのことで、とてもいい文章だと思いました。ひねくれ者ではあるけど優しい人だと思います。


 現代に照らして言うと、現代日本ではフルタイムで働いても給料が低い人が非常に多く、物価上昇に対して賃金は上がらないスタグフレーションが起きていますが民衆は与党に票を入れ続け、特に文句も言いません。
 坂口安吾の言うところ堕落を誰もしていない状況です。既に多くの人間が貧しくて生活が大変なのに。
 本当はみんな堕落し、政府に向かって文句を言いまくるべきですが、多くの人がしていません(最近はデモが盛り上がっていますが、主たるものは賃金についてではなく改憲を反対するものです)。
 制度の網目からすり抜ける人はまだごく一部なので、制度改革の必要はないと政府は判断しています。

 要するにみんな特に文句を言わず黙って従って働いてるから政府も企業も労働者コキ使えるだけ安くコキ使っちゃお~って状態になってると思ってます。
 文句を言うという堕落をみんなしないことで、社会全体がつらい労働環境の薄給で働く堕落した社会になっている。


 SNSが強いことでより現代社会は「道を踏み外したくない」という気持ちが人々に強まっていると思います。
 でもそれでいいのか!? というのは全時代、全社会の人に通じる話だと思いました。



小説「郵便局」チャールズ・ブコウスキー

 ブコウスキー初読です。
 作者が実際アメリカの郵便局で働いていた話を元にした半自伝的小説。

 主人公もすごくむちゃくちゃな人なのですが、郵便局がかなりブラック労働で大変だしつらい、的な話です。
 プロレタリア文学なのかなと思って読んでいたのですが、解説によると社会主義を理想として資本主義を批判しているわけでないため別物らしいです。


 主人公は初め非正規職員の郵便配達員として郵便局で働き、次に正規の職員になります。ここには非正規職員と正規職員の分断があります。
 のちに郵便仕分けの事務職として入社した際には、郵便仕分けをする人と仕分けについて講義やテストをする職員や上司との分断が描かれます。

 個人的には現代の労働の問題はブコウスキーの描くものにかなり近いと感じました。
 現代で労働環境や資本主義を批判する人間も、多くは社会主義を理想として批判しているのではなく、ただ「現環境には問題がある」ということを言っています。
 問題は貧富の差の拡大そのものではなく、貧しい者がいくら働いても貧しいままであることです。
 資本主義批判はしばしば社会主義賛美として受け取られますが、これはかなり捻じれた受け取り方なのではないかと思いました。
 と言うか、むしろ「資本主義批判は社会主義賛美である」と受け取ることによって、資本主義構造への批判を無効化させる卑怯な手段であるのではないでしょうか。

 最近改めて資本主義対社会主義の構造と日本の戦後の歴史と戦後思想史を勉強したいな~と思っていたので、そのあたりのことが読んでいて気になりました。
 続堕落論に準えて言えば、「郵便局」の主人公(ブコウスキー自身)もまた堕落した存在であり、堕落すること、ひいては半自伝的小説としてこうした小説を書くことで、制度の網目からすり抜けた存在として制度に反撃しているのだと思います。



小説「ハンチバック」市川沙央

 市川沙央さんのインタビュー等は読んだことがあってすごい方だなと思っていたのですが、ようやく作品を読みました。4万字台と短く、文体も平易で読みやすかったです。

 この作品も正に「続堕落論」で言うところの制度の網目をすり抜けた存在を描く小説であり、制度に復讐した作品、復讐を勢いづけるところの受賞であるように感じました。

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さを憎んでいた。

軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。

 強すぎる。


 主人公は筋疾患先天性ミオパチーなる病によって、右肺を押しつぶす形で背骨がS字に湾曲しており、人工呼吸器をつけてグループホームで暮らしている30代の女性。
 推定アルファポリスやDLsiteでティーンズエロ小説を書いていたり、男性のふりをしてハプバー利用のエロ体験をコタツ記事として書いていたりで収入を得ているのも強かった。Twitterにしか見えないSNSも話に出てくるし、「弱者男性」とかも出てくる。現代日本社会すぎる。

 強いのですが、作品が評価されている大きな要素として「障害者が主人公であり、現代日本社会におけるその生活と人生がリアルに描かれていること」といった点があるのだろうところが、なんか……なんかじゃないすか!?
 それが特段評価される点とはならないくらい、障害者が主人公や登場人物の作品が当たり前になってほしいなと思いました。
 そういう意味で自分もADHD/ASD当事者、クィア当事者たる作品を出すべきなのかな~と思う気持ちと、代表者にはなりたくないのだよな~という気持ち。でも誰かが代表者にならないためにもみんな公言したほうがいいのだよな。みんな健常者のふりをしすぎ。
 多分ADHD/ASDじゃない主人公を描くことはあまりないと思うので、そこは作品内で明言してもよいのかも。

 とは言え上記の点を抜いても強い小説であることは確かです。

 制度の網目からすり抜ける人は健常者ぶって作品を作るより、制度の網目からすり抜ける人間のまま作品作ったほうがいいんだと思います。
 現代がマジョリティに迎合した作品が多いのは資本主義が強すぎるからだと思います。(それに逆行するものとしてポリコレの動きがあるわけですが)



 真逆の例として最近「ハイパーたいくつ」も読んだのですが、こちらは制度の網目をすり抜ける存在の小説ではあるけど特に制度に復讐してはないなという小説でした。
 主人公はバキバキの言語優位脳内多動、注意欠陥の強いADHDでいわゆる「社不」なる存在だと思うのですが、それがただの「オモロ」として描かれており、「オモロ」のまま終わるのが(ADHD当事者として)嫌だな~……と感じました。特に面白くないし、これを面白いと思える人も嫌です。
 破綻しているADHDの生活や思考回路に面白さがある場合もあることは確かなのですが、それをただ面白がるのはADHDを人間扱いしていないと感じました。


 坂口安吾は制度の網目からすり抜ける人を描く・救うのが小説だと言いましたが、創作物にエンタメ性(主にプロット)が強く求められる現代でもそれが適用できるのかと言うと疑問です。
 また、創作物によって救われることで堕落することを留まっている人間も多くいると思うので、それは坂口安吾の望むところと逆であるように思います。

 プロット力もいるよなあという気持ちと、でもプロット力が高いと「物語にメッセージ性なんてない」とか言われちゃったりするので難しいよな~



終わり

 長くなってしまった。
 長くなるなら作品ごとに記事を分けたほうが読みやすいと思うんだけど、感想系の記事はたくさん読まれたくもないのでまあいいと思う。
 でも一人くらいには読まれたいので、タイトルをなんの作品について話しているのかわかるようにしてみた。



 ゲームは「佐藤さん暇つぶしチャット.exe」のゲームシステムが面白かったです。
 LINE的なゲーム画面でチャットのやり取りをしつつ、webサイトを開いて不審点を探すという感じ。
 気になった点は色々あるのですが、無料だしなという感じです。

 あとこれは完全に私の好みの問題ですが、リアル寄りのモキュメンタリー(上記作品で言うとwebサイト等)に二次元感バリバリのキャラデザを合わせるのは微妙にちぐはぐ感があります。第四境界もそう。
 絡むキャラは二次元なほうが可愛くて嬉しい、でもモキュメンタリーの謎解き要素はリアルっぽいほうがドキドキする、というところを両立させているんだろうとは思う。二次元キャラなほうがグッズとか展開させやすいし。
 でもやっぱりちぐはぐだなと感じてしまう。謎解きも二次元世界だったら気にならない。



 あと友達と一緒にプレイしたら完全に詰んでたI'm on Observation Duty 2がクリアできました。苦手すぎる。
 3はウォークインになるっぽいのでより無理な気がします。



 来月も放送大学の講義を受けるのであまりその他にはなにもできない気がする。
 欲張って受講しすぎた……。

 ひとえに「全体主義と新自由主義のあいだ」という20世紀のイデオロギーとリベラリズムについての講義が爆クソ重いです。面白いしすごくいい講義なんだけど。「必要な前提知識なし」はマジで嘘(嘘ではないのかもしれないが本当になにも知らない状態で聞いて理解できるのか……?)。
 しかも教科書がないから今後のために内容全部メモっておきたい……! とか思うと大変すぎて苦しんでます。






いいなと思ったら応援しよう!

たばため 資料、機材の購入に使わせていただきます。

この記事が参加している募集