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曹操 国家の統一を求める法家路線の代表者 文革時代の評価

人民画報より

曹操の文革時代の評価

曹操(紀元155~220年)は、沛国進県(今の安徽省亳県)の人、東漢後期のすぐれた政治家、軍事家、詩人で、法家の代表的人物としても名高い。

曹操は、農民蜂起の高まりのなかに生まれた。紀元184年には黄巾の蜂起(本誌三月号参照)が勃発して、豪族・大地主の勢力と孔孟の教義に大打撃をくわえ、腐敗した東漢王朝をがかいさせた。だが農民蜂起軍を弾圧するなかで形成された各地の軍閥は、農民革命の果実を争奪するため、連年割拠・混戦をつづけた。多くの農民は殺され、社会の生産力はひどく破壊された。この苦しみに耐えかねた勤労人民は、はやく軍閥の混戦状態がおわって、国家が統一され、社会が進歩することを切実に願っていた。

豪族・大地主の兼併によっていためつけられた中小地主たちも、じぶんたちの利益から、中央集権の政府ができて、豪族・大地主の勢力が弱まることを望んでいた。こうして国家の統一と分裂割拠という当時のするどい社会的矛盾は、地主階級内部に反映され、中小地主の利益を代表する法家の進歩的路線と、豪族・大地主の利益を代表する儒家の後退的路線との闘争の焦点となったのである。曹操は、地主階級の革新派として、政治舞台に登場した。かれがおしすすめたのは、中国の統一を求める法家の政治路線であった。

曹操は、豪族の出身でないために、地主階級としてのかれの社会的地位は比較的に低く、豪族たちの排斥をうけていた。青年時代、洛陽で北部尉(武官の最高位)の職にあった時、かれは「法治」を実行し、皇族や高位高官の人であろうと法をおかした者は、すべて厳重に処罰した。そのご済南の長官の職にあった時も、配下の県吏に、豪族の勢力をかさに着て、悪事をはたらく者がいるのを発見して、さっそくそのうちの8人の者を免職してしまった。しかしこうした局部的な闘争で、政治を全面的に革新することは不可能なことである。そので、曹操は、 急速に自身の軍事力を強化し、政治・経済・軍事および思想・文化などの分野で、豪族・大地主の勢力とたたかいを進めるようになった。

中国北部の統一を実現

大軍閥の董卓が没落したあと、袁紹が北方の豪族・大地主らの割拠勢力の代表者となった。 紀元200年、袁紹は大軍をひきいて、官渡(今の河南省中牟県にある黄河の渡し場) にせまり、曹操の軍と決戦をおこなった。この名高い戦役で、曹操の側は兵力・軍糧とも劣勢な地位にあったが、曹操は自ら軽騎兵を指揮して、烏巣(今の河南省の延津県東南部) にある袁軍の食糧倉庫を夜襲し、袁軍の帰路をたち、袁軍に徹底的な敗北をあたえた。そのご曹操は主導権をにぎり、いっそう優勢な兵力をもって統一戦争をつづけた。また、袁紹の残存勢力と結託して分裂活動をすすめていた、北方の烏桓の貴族を鎮圧した。そのあと、いっそう全面的に法家路線をおしすすめ、豪族・大地主勢力の兼併をおさえ、社会経済を発展させた。また、有能な人物を採用し、味方の内部にひそんで反抗・破壊をおこなっていた孔融らの儒家の代表人物をだんこ弾圧して、中国北部を統一した。

諸制度の改革

豪族・大地主勢力の兼併をおさえるために、 曹操は、東漢いらい割拠によってもたらされた税制の混乱を正し、豪族・大地主が自分たちの納むべき租税を中小地主や自作農に代納させることをきびしく禁止した。

曹操は、「兵を強くし、食糧を充実させる」のは、「国を治める術」であるといって、前代の法家の「耕戦」思想(農業につとめ戦いに備える思想)をうけつぎ、屯田制をひろめた。屯田制は、連年の軍閥混戦のため流亡していた多数の農民を募集して、軍事編制によって定住させ、農業生産にあたらせるというものであった。その結果、農業生産は回復・発展して、統一戦争の必要とする兵糧を供給することができた。

政治がきわめて腐敗していた東漢末には、官吏の登用にあたって家柄だけを問題にし、親近者だけを登用した。また儒家流の偽善的な徳行を重んじ、儒家路線に忠実な偽善者や空論家を重用した。曹操は、革新路線を徹底的に実行できるように、儒家のふるい伝統と標準をうち破り、「才能あるものだけを登用し」 「功のない臣には官をあたえず、戦わない士には賞をあたえない」ことを主張し、「不仁不孝」といわれるような人でも、「国を治め兵を用いる術」を身につけていさえすれば、登用することができると公然と宣言した。曹操の「才能あるものだけを登用する」という主張は、法家の政治路線に奉仕するもので、この方針を実行することによって、曹操の側近には革新精神にもえた多くの有能な人材が集まり、とくに郭嘉らのような策士は、曹操が統一の革新事業をやりとげる上での有力な助手であった。

「法をもって軍を治める」という先秦時代の法家思想をうけついだ曹操は、軍隊の建設にも法家思想に明るい人を登用することを主張した。かれは儒家の礼制では軍隊を建設することができないといって、みずから軍令や軍法を制定した。そのなかで曹操は行軍・作戦の厳格な規定を掲げているばかりか、行軍の時に農作物を荒してはならぬこと、戦闘のさい、民間の財物を略奪してはならぬなどと定めている。曹操はまた、軍隊のなかに明確な賞罰制度を設け、功ある将兵はその功の大小に応じて賞し、 いくさに敗けた将兵には罪の軽重によって罰を科しあるいは官爵を免じた。「法をもって軍を治める」ことによって、曹操の軍隊はつよい戦闘力をもち、割拠勢力との戦のなかでめざましい威力を発揮することができた。

すぐれた軍事専門家であった曹操は、実際の情況に応じて古代の兵書の記載する戦略・戦術の原則を運用することに長じていたので、奇襲によって勝利をおさめ、弱兵をもって強兵にうちかつことができた。曹操は、また、自身の経験と歴史上の戦争の経験をしめくくって兵書を著わしたほか、『孫子』の注釈を書いた。部下の将官は、みな曹操の兵書にもとづいて軍隊を訓練し、作戦を指揮した。

老年まで進取の精神にもえる

曹操は、東漢の支配者が宣伝した孔子の天命論にだんと反対して、じぶんは天命などを信じたことがないと、公然といっていた。また「天地間では、人間が貴い」といい、人間の主観的努力を強調した。

曹操の法家思想と積極的な進取の精神は、かれの詩の中にもよく表われている。曹操は烏桓を平定して引きあげる途中、碣石(今の河北省東部にある)を通過した時、高所に登って大海を眺め、詩『碣石篇』をつくった。その詩の中には次のような豪壮な句がある。「老驥櫪(としおいたるうまうまや)に伏すとも、志、千里に在り。烈士暮年なれども、壮心巳まず。」この一句のなかに、年老いてもなお統一革新事業の大志を燃やしつづけたかれの気迫がよくあらわれている。

地主階級の革新派であった曹操には、とうぜん階級の制約があった。階級的本性から、かれが黄巾の蜂起軍を鎮圧したことは、かれの生がいの最大の罪悪である。思想の上でも、完全に儒家の影響をぬぐいさることができなかった。 しかしかれが終始法治路線を守って、豪族・ 大地主の割拠勢力とだんこたたかい、中国の統一と封建主義的中央集権制度の再建に貢献したことは、歴史の発展の大勢にかなったことであった。

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