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火が消えたあとに残っていたもの

キャンプの翌朝、俺は友達の車で吐きかけていた。

窓の外を流れていく山道を見ながら、できるだけ呼吸を浅くする。

少しでも下を向いたら終わる。

スマホなんて絶対に見られない。

会話に参加する余裕もない。

ただひたすら、

「頼むから地元まで持ってくれ」

と、自分の胃に祈っていた。

四十歳。

中学からの友達とのキャンプ帰り。

楽しかった夜の代償としては、あまりにも分かりやすい朝だった。

昨日の夜は、あんなに笑っていたのに。

今の俺は、道路脇に車を止めてもらうかどうかという、人生でもかなり低いレベルの決断を迫られている。

歳を取るって、こういうことなのかもしれない。

少なくとも、身体は嘘をつかない。

そんなことを考えながら、俺は窓の外だけを見ていた。

そもそも今回のキャンプ。

誘われた時から「待ちきれないほど楽しみ」だったわけではない。

むしろ最初に浮かんだのは、

「ああ、キャンプか」

だった。

嫌なわけじゃない。

友達に会うのも楽しみだ。

でも四十歳にもなると、「遊びに行く」という予定の後ろに、勝手にいろんなものがくっついてくる。

準備。

移動。

疲れ。

翌日。

仕事。

家のこと。

若い頃なら「行く」で終わった話なのに、いつの間にか頭の中で小さな会議が開かれるようになった。

中学生の頃の俺たちなら、もっと簡単だった。

「行こうぜ」

「行く」

以上。

財布にいくら入っているかも、明日の体調も、たいして考えなかった。

たぶん若さというのは、体力のことだけじゃない。

未来の自分に後始末を丸投げできる能力のことでもある。

今は、その未来の自分が文句を言ってくる。

それでも日が近づくにつれて、だんだん楽しみになってきた。

昔からそうだった気もする。

行くまでが面倒で、行ってしまえば楽しい。

人生には、そういう場所がある。

距離ではたいして遠くないのに、

行くまでが妙に遠い場所。

キャンプ場に着いた時、空は灰色だった。

雨が降っていた。

幸い、今回はテント泊ではなくコテージだった。

濡れた地面にペグを打つ必要もない。

雨漏りを心配する必要もない。

屋根がある。

布団もある。

四十歳の身体には、これがありがたい。

「キャンプなのにコテージかよ」

なんて若い頃なら言ったかもしれない。

でも今なら胸を張って言える。

屋根は偉大だ。

雨の日の森には、晴れの日とは違う匂いがある。

濡れた土。

湿った木。

葉っぱの上に溜まった水。

雨粒がコテージの屋根を細かく叩いていた。

ザアザアというほど激しくはない。

かといって止みそうでもない。

森全体が、大きな霧吹きで濡らされたようだった。

誰かが外を見ながら言った。

「これ、焚き火できるかな」

俺も同じことを考えていた。

キャンプに来て、焚き火ができない。

もちろん、それでも友達と酒を飲めれば楽しい。

でも、やっぱり少し寂しい。

キャンプにおける焚き火は、寿司における醤油くらい重要だ。

なくても成立はする。

でも、なんか違う。

ところが夕方になって、雨が少し弱くなった。

「いけんじゃね?」

誰かが言った。

外へ出る。

空気はまだ湿っている。

地面も濡れている。

薪にも少し湿気が残っている。

最初についた火は頼りなかった。

オレンジ色の小さな舌が、薪の隙間からちらちら見える。

消えそうになる。

誰かが薪をずらす。

また火がつく。

煙だけが増える。

目に入って痛い。

少し場所を移動する。

すると今度は風向きが変わって、また煙がこっちへ来る。

焚き火というのは、どうしてあんなに人を追いかけて煙を吐くのだろう。

それでも、しばらくすると火は落ち着いた。

パチッ。

乾いた音がした。

薪の表面が黒くなり、その隙間から赤い光が見える。

もう一度、

パチッ。

火の粉が小さく夜へ飛んでいった。

気づけば俺たちは、その火を囲んでいた。

暗くなった森の中で、そこだけが明るかった。

炎の向こうに友達の顔が見える。

赤くなったり、影になったりする。

酒を飲む。

誰かが話す。

誰かが笑う。

別の誰かが続きを話す。

俺にも何度も話を振ってくれた。

たぶん気を遣ってくれていた部分もあったんだと思う。

ありがたかった。

でも不思議なことに、

今こうして思い返してみると、

あの夜、何を話していたのかほとんど覚えていない。

かなり飲んだから、というのもある。

それは否定できない。

むしろかなり有力な説だ。

でも、それだけじゃない気もする。

仕事の話をしたかもしれない。

家庭の話をしたかもしれない。

中学時代のくだらない話だったかもしれない。

本当に覚えていない。

それなのに、

あの時間が楽しかったことだけは、はっきり覚えている。

話の内容は消えているのに、

笑っていた感じだけが残っている。

人の記憶というのは、ずいぶん変な作りをしている。

その時だった。

友達の一人が、火吹き棒を持った。

中学の頃から知っている男だ。

ただし、身体だけは中学生からかなり遠いところへ進化している。

とにかくマッチョなのだ。

本人は普通に火を強くしようとしただけだと思う。

火吹き棒を口に当てる。

大きな身体を少しかがめる。

そして、

「フーーッ」

と息を吹き込んだ。

次の瞬間、炎が一気に立ち上がった。

ボッ。

赤い火が、彼の顔の前で揺れた。

火に照らされた筋肉。

真剣な目。

口元には火吹き棒。

ドラゴンだった。

完全にドラゴンだった。

四十歳のマッチョなドラゴンが、キャンプ場の片隅で誕生した。

俺たちは笑った。

くだらなかった。

本当にくだらなかった。

でも、腹を抱えて笑った。

あの瞬間だけ切り取れば、

中学生の頃と何も変わっていなかった。

もちろん、実際には変わっている。

顔も変わった。

身体も変わった。

仕事がある。

家庭がある。

背負っているものも、それぞれ増えた。

中学生だった俺たちが今の俺たちを見たら、

「おっさんじゃん」

と笑うだろう。

反論はできない。

実際おっさんだ。

翌朝になれば、俺なんて二日酔いで車の中で吐きかける。

着実に老けている。

なのに。

火吹き棒一本で笑っている時だけは、

何も変わっていなかった。

その夜が何時まで続いたのか、あまりよく覚えていない。

酒を飲んだ。

笑った。

また飲んだ。

気づけば朝だった。

そして冒頭に戻る。

帰りの車。

気持ち悪い。

非常に気持ち悪い。

せっかくの思い出を車内にぶちまけるわけにはいかない。

俺は無言で耐えた。

友達は普通に話している。

その声を遠くに聞きながら、

「人間、四十歳になったら自分の限界くらい分かるものだと思っていた」

と反省した。

どうやらそうでもないらしい。

身体だけ歳を取って、

飲み方だけ二十代のまま残っている場合もある。

幸い、吐かずに地元まで帰ることができた。

最後にみんなでラーメンを食べた。

湯気の立つ丼が目の前に置かれる。

昨日の酒のせいで疲れた胃にラーメンを入れるという判断が正しいのかは分からない。

でも、こういう時のラーメンはうまい。

「楽しかったな」

誰かが言った。

「楽しかった」

別の誰かも言った。

俺も頷いた。

そこで、少しだけ安心した。

実は心のどこかで気になっていた。

本当にみんな楽しかったのかな、と。

俺に気を遣って話を振ってくれていたんじゃないか。

無理に盛り上げてくれていたんじゃないか。

大人になると、変なところまで考えるようになる。

昔なら、

自分が楽しかった。

だからみんなも楽しかった。

それで終わった。

今は、相手の顔の裏側まで勝手に想像してしまう。

でもラーメンをすすりながら笑っている顔を見て、

まあ、いいかと思った。

楽しかったと言うなら、

楽しかったんだろう。

それくらいでいい。

店を出て、そこで解散した。

「じゃあな」

「おつかれ」

そんな感じだった。

その後、LINEが来ることはなかった。

「今日はありがとう」

も、

「最高だったな」

も、

「次いつ行く?」

もない。

写真のやり取りだって、ラーメン屋で終わっていた。

でも、それでよかった。

むしろ、そのあっさりした感じが俺たちらしかった。

中学からの付き合いだからといって、

毎日連絡を取ってきたわけじゃない。

人生の節目ごとに長文を送り合ったわけでもない。

ここ数年、時々集まって飲む。

会えばくだらない話をする。

笑う。

解散する。

そして、それぞれの日常へ戻っていく。

次に会うまで、特に何もない。

でも次に会えば、

まるで先週も一緒にいたみたいに話が始まる。

たぶん大人の友情というのは、

ずっと火を燃やし続けることじゃない。

必要な時に、

まだ火がつくと知っていることなのかもしれない。

家に帰った。

玄関のドアを開けた瞬間、

身体から力が抜けた。

「ああ、落ち着く」

誰に言うでもなく口から出た。

静かだった。

いつもの家。

いつもの匂い。

いつもの景色。

キャンプ場の湿った森も、

焚き火も、

笑い声もない。

そして俺は思った。

やっと一人になれた。

自分でも笑ってしまった。

ついさっきまで、

友達との時間が終わるのを少し惜しんでいたはずなのに。

帰ってきたら帰ってきたで、一人が心地いい。

人間はずいぶん勝手だ。

でも、たぶんそれでいい。

誰かといる時間が好きだからといって、

ずっと一緒にいる必要はない。

一人の時間が好きだからといって、

誰かを必要としていないわけでもない。

家が落ち着くから、

外へ出られる。

一人に戻れるから、

また誰かに会いに行ける。

夜、スマホを開いた。

キャンプの写真が残っていた。

炎。

酒。

笑っている友達。

火吹き棒を口にくわえたドラゴン。

そして、その隣で笑っている俺。

よく見ると、

ちゃんと歳を取っていた。

若くはない。

中学生の俺たちではない。

四十歳の男たちが笑っている。

その写真を見ながら、

俺はふと気づいた。

あの日、

「昔に戻った」

と思っていた。

でも、違ったのかもしれない。

俺たちは一度も昔に戻ってなんかいなかった。

仕事もある。

家族もある。

疲れもある。

二日酔いにもなる。

誰も十五歳には戻れない。

時間はちゃんと進んでいる。

ただ、

四十歳になった俺たちの中に、

十五歳の俺たちも一緒に歳を取らずに残っていた。

普段は見えないだけだった。

仕事をしている時も。

家で父親をしている時も。

明日の予定を考えている時も。

どこかにいる。

火吹き棒一本で笑える少年が。

そして、たまに昔からの友達に会うと、

そいつがひょこっと顔を出す。

「まだいるぞ」

と言わんばかりに。

スマホを閉じた。

友達から連絡は来ていない。

俺から送ることもしなかった。

次にいつ会うのかも決まっていない。

でも、不思議と寂しくなかった。

キャンプ場では、あれほど消えそうだった火が、

最後にはちゃんと燃えていた。

俺たちの関係も、

たぶんそれくらいでいい。

毎日薪をくべなくてもいい。

ずっと炎が見えていなくてもいい。

雨が降る時だってある。

ただ、

また集まった時に、

誰かが少し息を吹き込めばいい。

そうすればきっと、

何事もなかったように火はつく。

風呂に入ろうと立ち上がった時、

服からふっと煙の匂いがした。

キャンプ場で染みついた、焚き火の匂いだった。

火は、とっくに消えている。

友達も、もうそれぞれの日常に戻っている。

それなのに、

匂いだけがまだ残っていた。

俺はそのまま、少しだけ立ち止まった。




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読み終えたあと、いつもの景色が少しだけ違って見える。
そんな物語を届けられたら嬉しいです。

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