来られる方の身になってみろ
「お盆、嫌なんだよね」
実家の母が、ぽつりと言った。台所で、まな板の上の枝豆を睨みつけながら。
最初は、親戚付き合いが面倒なのかなと思った。よくある話だ。義理の妹の自慢話がキツいとか、伯父さんの武勇伝が同じところで三回ループするとか。
でも、話を聞いているうちに、少し違うことに気づいた。
嫌なのは、親戚そのものじゃない。
親戚が集まることで、自分だけがオペレーションセンターと化すこと。
それだった。
⸻
俺には従兄弟が4人いる。
みんな結婚して、それぞれ家庭を持っている。つまり戦力は増えているはずなのに、なぜか前線に立つのはいつも母一人だ。
お盆になると、嫁さんや子どもたちを連れて実家に集まる。
なぜか、集合場所はいつも俺の実家。まるで実家がフランチャイズの本部で、他はみんな「本部にご来店ありがとうございます」状態。
昔からそうだった。
「お盆だから、みんなで集まろう」
それ自体は、悪いことじゃない。
むしろ、今の時代なら貴重なことだと思う。核家族化だ何だと言われる中で、親族が一堂に会し、子どもたちが走り回って高そうな置物を倒しかけ、大人たちは30年前の武勇伝を語る。そういう時間が残っているのは、いいことだ。
ただし。
来る側と迎える側では、同じ「集まる」でも、体感時間がまるで違う。
来る側は、家を出る。
子どもを車に乗せる。
途中でちょっとしたお菓子を買う(この「ちょっとした」がクセモノなのだが、それは後述する)。
実家に着く。
「久しぶりー」
と挨拶する。
そして、みんなでご飯を食べる。
しばらく話して、
「じゃあ、またね」
と、満腹で眠そうな顔をして帰る。
一方、迎える側は、その何日も前から戦争が始まっている。
掃除をする。
買い物をする。
何を食べさせるか考える(アレルギーは?好き嫌いは?子どもは何歳になった?)。
料理をする。
飲み物を用意する。
座る場所を作る。
足りないものがないか気にする。
そして、みんなが帰ったあとには、戦後処理としての片付けが待っている。
来る側にとっては「親戚の集まり」でも、
迎える側にとっては、
もはや一日がかりのイベント運営である。誰も入場料を払っていないイベントの。
しかも毎回、持ってくるものは小さなお菓子くらい。あの箱、毎年同じ和菓子屋のやつじゃないか説すらある。
もちろん、それが悪いと言いたいわけじゃない。気持ちは嬉しい。
でも、毎回ご飯を食べて帰るのである。しかもおかわりする。
それならせめて、
「今年は俺たちが料理持っていくよ」
とか、
「食材代、みんなで出そう」
とか、
「片付けは俺たちがやるよ」
とか。
そういう一言があってもいいんじゃないかと思う。
母が、
「来られる方の身になってみろ」
と言った。
その言葉が妙に残った。文法的には若干怪しい気もするが、言いたいことは痛いほどわかった。
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考えてみれば、こういうことはお盆だけじゃない。
誰かの家で集まるとき、
「場所を提供してくれる人」がいる。
その人が、
「いいよ、うちでやろう」
と、軽く言ってくれる。その一言の裏にある工数を、誰も見積もっていない。
すると、いつの間にかそこが「みんなの場所」になる。
でも、本当は違う。
そこは、
その人の家だ。
その人が暮らしている場所だ。
その人が掃除して、その人が片付けて、その人が生活している場所。
「実家だから」
という理由だけで、いつまでも無料の集合場所になる必要はない。実家は宴会場じゃない。
⸻
じゃあ、どうすればいいのか。
俺は母に言った。
「来年からさ」
「うん」
「13日と16日以外、旅行しようぜ」
母が少し笑った。長らく見ていなかった、企みを含んだ笑い方だった。
13日は迎え盆。
16日は送り盆。
その間の14日、15日は、もう家にいない。
旅行に行く。
これなら、誰かを追い返す必要もない。
「親戚が嫌だから来ないで」
と言う必要もない。角も立たない。
ただ、
自分たちの予定を先に入れる。それだけだ。予定という名の、正当な逃げ道。
「今年はお盆、旅行に行くから実家いないよ」
それでいい。
親族が集まりたいなら、別の場所で集まればいい。
誰かの家を使うなら、その家の人が負担しなくて済むようにすればいい。
それだけの話だ。
⸻
少子化が進んで、親族の数も少なくなっていく。
昔なら十人、二十人集まっていた家に、今は数家族しか集まらない。
でも、不思議なことに。
人が減っても、昔のやり方だけは律儀に残っている。担ぐ神輿は軽くなったのに、担ぎ手の数はさらに減っているという謎現象。
昔はみんなで分担していたのかもしれない。
でも今は、その負担が一人に偏っているかもしれない。
「昔からこうだから」
という理由だけで続けていることは、案外たくさんある。誰も見直そうとしないまま、惰性で毎年再演される年中行事。
だから、少子化で人が減っていく今だからこそ、
「集まらないようにする」
のではなく、
「集まり方を変える」
ことが必要なんじゃないかと思う。
料理は持ち寄り。
食費は割り勘。
片付けは全員で。
毎年同じ家を使わない。
たまには外食する。焼肉でもいい。誰かの家より確実に片付けが楽だ。
そして、家の人が疲れているなら、
「今年はやめよう」
と言ってもいい。
集まることが大切なのであって、
誰か一人を疲れさせることが大切なわけじゃない。
⸻
なんて偉そうなことを書いているけれど。
実は俺も、人のことは言えない。
母が忙しく準備している横で、
俺は何をしているかというと。
逃げている。堂々と。実に見事な逃げっぷりで。
お盆になると、
「ちょっと遊びに行ってくるわ」
と言って家を出る。
そして、親族が集まる頃にはいない。無事、任務放棄完了である。
母からすれば、
「お前も来る側だろ」
という話である。
たぶん、その通りだ。反論の余地がない。
「母ちゃん大変だな」
なんて言いながら、
自分はその大変さから、誰よりも早く逃げている。むしろ最速で離脱している。
だから来年からは、
母を逃がすことにした。今度は俺が母を連れて逃げる番だ。
13日と16日は、お盆をする。
それ以外は、
一緒に旅行する。
親戚から逃げるためじゃない。
母が、
「自分のためのお盆」を過ごせるようにするためだ。
⸻
お盆だから、家族が集まる。
それはいい。
でも、
「集まりたい人」がいるなら、
「迎える人」のことも考えたほうがいい。
来る人には、帰る場所がある。
迎える人には、その日常がある。しかも集まりが終わった後も、その日常は容赦なく続く。
だからたまには、
来られる方の身になってみろ。
そう言われないと気づかないことがある。俺のように。
そして俺の場合は、
その言葉を母から聞いて初めて、
「じゃあ来年は、俺が母ちゃんを連れ出せばいいじゃん」
と思った。単純な話だった。なぜもっと早く気づかなかったのか。
たぶん家族って、
何か大きなことをしてあげることじゃない。
こういう小さな、
「もう、無理しなくていいんじゃない?」
を一緒に考えることなのかもしれない。
来年のお盆。
13日と16日は実家にいる。
14日と15日は、
母と旅行に行く。
行き先はまだ決めていない。とりあえず、台所から一番遠い場所がいい。
この物語が心に残った方へ。
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