焼きたての理由
午前七時。
病棟の廊下には、まだ夜の名残があった。
看護師の遥は、ナースステーションの時計を見上げた。
夜勤明け。
制服のポケットには、ボールペンが二本。
小さなメモ帳。
スマートフォン。
そして、何度も手を洗ったせいで乾いた指先。
「お疲れさまでした」
同僚に声をかけられる。
「お疲れさま」
遥は笑った。
いつもの笑顔だった。
患者に向ける笑顔。
家族に向ける笑顔。
同僚に向ける笑顔。
もう、どんなときでも自然に笑えるようになっていた。
それが自分の特技なのだと思っていた。
疲れていても笑える。
眠くても笑える。
腹が立っていても笑える。
悲しくても笑える。
看護師になって十八年。
遥は、そういうことだけは上手くなった。
*
看護師になって十八年になる。
採血。
点滴。
投薬。
清拭。
食事介助。
ナースコール。
記録。
家族への説明。
急変対応。
それらを何千回、何万回と繰り返してきた。
人の役に立っている。
そう言われれば、否定する理由はない。
実際、助けた人もいる。
「ありがとう」
と手を握られたこともある。
退院する患者に、
「あなたがいてくれてよかった」
と言われたこともある。
嬉しかった。
その瞬間は、本当に嬉しかった。
だからこそ、遥は自分が何に疲れているのか分からなかった。
*
ある夜。
八十歳を過ぎた男性患者が、ナースコールを押した。
遥が病室に入る。
「どうしました?」
男性はベッドの上から言った。
「水、もう少しもらえるかな」
「もちろんです」
遥はコップに水を注いだ。
男性はゆっくり飲んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
遥はコップを置いた。
そのとき、男性が言った。
「看護師さんは大変だねえ」
「そうですね」
遥は笑った。
そして、いつものように続けた。
「でも、人の役に立てる仕事ですから」
口から勝手に出た。
言い慣れた言葉だった。
看護学校にいた頃から、何度も聞いてきた言葉。
人の役に立つ。
人を助ける。
人のために働く。
それは正しい。
きっと正しい。
なのに、その夜だけは、その言葉が妙に空々しく聞こえた。
病室を出て、ナースステーションへ戻る。
椅子に座る。
モニターの電子音が一定のリズムで鳴っている。
遥は自分の手を見た。
少し荒れた指先。
消毒液の匂いが染みついた手。
その手を見ながら、ふと思った。
――私は、人の役に立つためだけに生きたいんだろうか。
*
人の役に立つ。
それは素晴らしいことだ。
誰も否定しない。
けれど、
「必要とされること」
と
「自分がやりたいこと」
は、同じではなかった。
病気になった人を助ける。
弱った人を支える。
できないことを代わりにやる。
不安な人を安心させる。
それは大切な仕事だ。
必要な仕事だ。
遥だって、その仕事を否定したいわけではない。
ただ、いつの間にか、
「必要だからやる」
だけで、一日が埋まっていた。
必要だから働く。
必要だから残業する。
必要だから我慢する。
必要だから笑う。
そして家に帰れば、
必要だから家事をする。
必要だから家族の予定を調整する。
気づけば、
「私は何がしたい?」
という問いだけが、どこにもなかった。
*
ある休日。
遥は久しぶりに街へ出た。
特に目的はなかった。
ただ、家にいても眠ってしまいそうだった。
駅前の商店街を歩いていると、小さなケーキ屋の前で足を止めた。
ショーケースの中に、苺のショートケーキが並んでいる。
真っ白な生クリーム。
赤い苺。
きめ細かなスポンジ。
その上に、小さなミントの葉。
遥はしばらく眺めていた。
店内から、甘い匂いが流れてくる。
バター。
砂糖。
焼けた小麦。
そして、果物の香り。
その匂いを吸い込んだ瞬間だった。
胸の奥に張りついていたものが、ふっと緩んだ。
「いらっしゃいませ」
店員が声をかける。
「これ、自分たちで焼いてるんですか?」
「はい。朝から全部作っています」
遥はもう一度、ショーケースを見た。
「……いいですね」
店員が笑った。
「ケーキ、お好きなんですか?」
遥は少し考えた。
「好き……なんだと思います」
言ってから、自分でも少し驚いた。
そんなことを考えたことがなかった。
好きなもの。
自分が好きなもの。
仕事ではなく。
家族でもなく。
誰かのためでもなく。
ただ、自分が好きなもの。
遥は苺のショートケーキを一つ買った。
*
家に帰り、箱を開ける。
ナイフを入れる。
スポンジが柔らかく沈む。
クリームが少しだけ押し出される。
苺を一口。
甘い。
酸っぱい。
生クリームの濃厚さ。
スポンジの卵の香り。
遥は思わず笑った。
「……美味しい」
それだけだった。
誰かを助けたわけではない。
病気を治したわけでもない。
命を救ったわけでもない。
ただ、
美味しい。
それだけ。
でも、その「それだけ」が妙に心地よかった。
*
それから遥は、ケーキを作り始めた。
最初はスポンジすらまともに膨らまなかった。
焼き上がったケーキは、中央が大きくへこんでいた。
「何これ」
夫が笑った。
「……ケーキ」
「見れば分かるよ」
二人で笑った。
二回目。
今度は膨らみすぎた。
三回目。
焼き色が濃すぎた。
四回目。
少しだけ、それらしくなった。
遥はケーキを切り分けた。
夫が食べる。
「うん」
「どう?」
「ケーキ」
「だから見れば分かるって」
また笑った。
夫は毎回律儀に感想を聞かれ、毎回同じくらい適当に答えた。
それでも、失敗作を残さず平らげることだけは欠かさなかった。
遥は、そのことが少し嬉しかった。
*
ケーキ作りには、看護の仕事とは違う面白さがあった。
病院では、
間違えないこと。
それが何より大切だった。
薬の量。
点滴の速度。
患者の状態。
記録。
確認。
再確認。
当然だ。
命に関わる仕事なのだから。
でも、ケーキには失敗してもいい余地があった。
卵を何分泡立てるか。
小麦粉をどのくらい混ぜるか。
バターをどこまで溶かすか。
オーブンの温度。
焼き時間。
苺の酸味。
クリームの甘さ。
ほんの少し変えるだけで、味が変わる。
失敗したら、
「なぜだろう」
と考える。
次は少し変えてみる。
また焼く。
また食べる。
また失敗する。
そして、ほんの少しだけ美味しくなる。
その「ほんの少し」が、たまらなく面白かった。
何より、
誰かに正解を教えてもらわなくてもよかった。
自分で考えていい。
自分で決めていい。
失敗してもいい。
遥は、それが嬉しかった。
*
ある日、夜勤明けの帰り道。
遥はコンビニの前で立ち止まった。
スマートフォンを見る。
病院からの連絡。
勤務表。
来月の夜勤。
休日。
また夜勤。
また早番。
また遅番。
画面を閉じる。
ふと、手を見る。
長年、消毒液に晒されてきた手。
指先が少し荒れている。
その手で、遥はケーキを作っていた。
泡立て器を持つ。
粉を混ぜる。
苺を切る。
クリームを絞る。
そのときだけは、
「誰かのために頑張らなきゃ」
という気持ちがなかった。
ただ、
「もっと上手く作りたい」
と思っていた。
そのことに気づいた瞬間、
遥は立ち止まった。
そして、小さく笑った。
「私、これが好きなんだ」
初めて、自分のために言った。
*
退職を決めたのは、その一週間後だった。
師長に話すと、驚いた顔をされた。
「もったいないよ」
遥は笑った。
「そうですよね」
「せっかくここまで続けたのに」
「はい」
「次も看護師?」
遥は首を横に振った。
「ケーキ屋さんをやろうと思っています」
師長はしばらく黙った。
「……本気?」
「本気です」
自分でも驚くほど、声がはっきりしていた。
師長は困ったように笑った。
「遥さんらしいね」
「そうですか?」
「うん。頑固だから」
遥も笑った。
「よく言われます」
*
退職の日。
最後の夜勤を終えた。
ナースステーションを出る。
廊下を歩く。
何度も通った廊下。
何度も開けた病室のドア。
何度も聞いたナースコール。
最後に振り返った。
寂しくないと言えば嘘になる。
ここで過ごした十八年が、簡単に消えるわけではない。
嬉しかったこともあった。
悔しかったこともあった。
助けられた人もいた。
助けてもらったこともあった。
だから遥は、病院に背を向けるのではなく、きちんと振り返った。
そして、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
それから、病院を出た。
*
最初の店は、小さなテナントだった。
広くはない。
厨房と、小さなショーケース。
二人掛けのテーブルが二つ。
壁には黒板。
店の名前は、
「ひるね」
にした。
「どうしてこの名前?」
夫に聞かれた。
遥は笑った。
「ケーキを食べるときくらい、みんな何も考えずに休めたらいいなと思って」
「なるほど」
夫は頷いた。
「でも、店の名前としては地味じゃない?」
「いいの」
「まあ、遥らしいけど」
開店準備を手伝いながら、夫は結局三回くらい名前の由来を聞いた。
遥は三回とも同じ答えをした。
最後には、
「もう分かったから」
と笑われた。
*
開店初日。
朝五時。
遥は厨房に立っていた。
卵を割る。
砂糖を入れる。
泡立て器を回す。
白身が少しずつ変わっていく。
ふわり。
ふわり。
空気を含んで膨らんでいく。
小麦粉を加える。
ゴムベラで切るように混ぜる。
型に流す。
オーブンへ入れる。
扉を閉める。
タイマーをセットする。
遥は腕を組んだ。
しばらくして、
厨房に甘い香りが漂い始めた。
焼けた小麦。
卵。
バター。
砂糖。
少しずつ、香りが強くなる。
遥はオーブンの前に立った。
「いい匂い……」
思わず声が出た。
その香りを嗅ぎながら、遥はふと気づいた。
病院では、朝が来るのが怖い日があった。
夜勤が終わっても、
「また次の勤務がある」
と思っていた。
でも今は違う。
朝が来る。
朝が来たら、
ケーキを焼ける。
そのことが、少し嬉しかった。
*
午前十時。
店を開ける。
最初の客が入ってきた。
近所の女性だった。
ショーケースを見る。
「どれがおすすめ?」
遥は答えた。
「苺のショートケーキです」
「じゃあ、それ」
ケーキを箱に入れる。
会計をする。
「ありがとうございます」
女性が帰っていく。
遥は窓から、その背中を見送った。
しばらくして、
女性が戻ってきた。
「あの」
「はい?」
「すごく美味しかった」
遥は少し驚いた。
「ありがとうございます」
女性は笑った。
「また来ます」
ドアが閉まる。
遥は厨房へ戻った。
そして、なぜか笑っていた。
*
それから少しずつ客が増えた。
子どもの誕生日ケーキ。
夫婦の結婚記念日。
仕事帰りに買う小さなプリン。
友達への手土産。
誰かの退院祝い。
誰かの誕生日。
誰かの、
「今日はちょっと頑張ったから」
という理由。
遥は、それが好きだった。
病院では、
誰かが弱ってから会う。
ここでは、
誰かが嬉しい日に会う。
もちろん、悲しい日に来る人もいる。
嫌なことがあった日に、甘いものを買う人もいる。
でも、
ケーキを食べたあとに、
ほんの少しだけ顔が緩む。
それを見るのが、遥は好きだった。
*
ある夕方。
閉店前の店に、小さな女の子が母親と入ってきた。
ショーケースを覗き込む。
「ママ、これ!」
指差したのは、小さな苺のタルトだった。
「これがいい」
母親が笑う。
「じゃあ、それにしようか」
遥はタルトを箱に入れた。
女の子が小さな声で言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
その言葉を聞いて、遥は少しだけ笑った。
昔と同じ言葉だった。
看護師だった頃、何度も聞いた。
何度も言った。
でも、何かが違っていた。
病院では、
「ありがとう」
と言われるたび、
「もっと頑張らなきゃ」
と思った。
ここでは、
「ありがとう」
と言われると、
「また作ろう」
と思った。
その違いが、遥には嬉しかった。
*
夜。
店を閉める。
照明を落とす。
厨房だけに明かりを残す。
明日の仕込みを確認する。
卵。
小麦粉。
砂糖。
バター。
苺。
チョコレート。
そして、明日のケーキの予定。
遥はオーブンを拭いた。
窓を少し開ける。
夜の風が入ってくる。
厨房には、昼間焼いたケーキの甘い香りがまだ残っていた。
遥は、看護師だった頃のことを思い出した。
「人の役に立つ仕事をしなさい」
何度も言われた。
それは間違いではなかった。
今でもそう思う。
人を助けることは尊い。
誰かのために働くことも、素晴らしい。
ただ、
それだけを自分の生きる理由にしなくてもよかった。
好きだから。
作りたいから。
美味しいものを食べると嬉しいから。
朝、オーブンを開けるのが楽しみだから。
そんな理由でも、よかった。
*
翌朝。
まだ店を開ける前。
遥は一人、厨房に立っていた。
オーブンのスイッチを入れる。
卵を割る。
砂糖を量る。
小麦粉をふるう。
ボウルの中で、生地がゆっくりと形を変えていく。
型に流す。
オーブンに入れる。
扉を閉める。
しばらくして、
甘い香りが立ち上った。
焼けた小麦の香り。
卵の香り。
バターの香り。
砂糖が焼ける、少し香ばしい匂い。
遥は目を閉じた。
深く息を吸う。
肺いっぱいに、甘い空気が入ってくる。
窓の外では、朝の町が動き始めていた。
新聞配達のバイク。
遠くを走る車。
犬の鳴き声。
誰かのシャッターが開く音。
その町の片隅で、
小さなケーキ屋から、
焼きたてのスポンジの香りが流れ出していく。
遥はオーブンの扉を開けた。
ふわり、と熱気が顔に当たる。
焼き上がったスポンジを取り出す。
表面はきれいなきつね色。
指先でそっと押す。
ふわっ、と戻る。
遥は笑った。
「今日も、いいのが焼けた」
店のドアを開ける。
朝の風が入ってくる。
焼きたてのケーキの香りが、
厨房から店内へ。
店内から通りへ。
通りから、まだ誰も知らない朝の町へ。
甘く。
温かく。
香ばしく。
遠くで、誰かが言った。
「なんか、いい匂いするな」
遥は小さく笑った。
返事はしなかった。
ただ、もう一度だけ深く息を吸った。
そして思った。
――明日も、焼こう。
それでいい。
それだけでいい。
