見出し画像

焼きたての理由

午前七時。

病棟の廊下には、まだ夜の名残があった。

看護師の遥は、ナースステーションの時計を見上げた。

夜勤明け。

制服のポケットには、ボールペンが二本。

小さなメモ帳。

スマートフォン。

そして、何度も手を洗ったせいで乾いた指先。

「お疲れさまでした」

同僚に声をかけられる。

「お疲れさま」

遥は笑った。

いつもの笑顔だった。

患者に向ける笑顔。

家族に向ける笑顔。

同僚に向ける笑顔。

もう、どんなときでも自然に笑えるようになっていた。

それが自分の特技なのだと思っていた。

疲れていても笑える。

眠くても笑える。

腹が立っていても笑える。

悲しくても笑える。

看護師になって十八年。

遥は、そういうことだけは上手くなった。



看護師になって十八年になる。

採血。

点滴。

投薬。

清拭。

食事介助。

ナースコール。

記録。

家族への説明。

急変対応。

それらを何千回、何万回と繰り返してきた。

人の役に立っている。

そう言われれば、否定する理由はない。

実際、助けた人もいる。

「ありがとう」

と手を握られたこともある。

退院する患者に、

「あなたがいてくれてよかった」

と言われたこともある。

嬉しかった。

その瞬間は、本当に嬉しかった。

だからこそ、遥は自分が何に疲れているのか分からなかった。



ある夜。

八十歳を過ぎた男性患者が、ナースコールを押した。

遥が病室に入る。

「どうしました?」

男性はベッドの上から言った。

「水、もう少しもらえるかな」

「もちろんです」

遥はコップに水を注いだ。

男性はゆっくり飲んだ。

「ありがとう」

「どういたしまして」

遥はコップを置いた。

そのとき、男性が言った。

「看護師さんは大変だねえ」

「そうですね」

遥は笑った。

そして、いつものように続けた。

「でも、人の役に立てる仕事ですから」

口から勝手に出た。

言い慣れた言葉だった。

看護学校にいた頃から、何度も聞いてきた言葉。

人の役に立つ。

人を助ける。

人のために働く。

それは正しい。

きっと正しい。

なのに、その夜だけは、その言葉が妙に空々しく聞こえた。

病室を出て、ナースステーションへ戻る。

椅子に座る。

モニターの電子音が一定のリズムで鳴っている。

遥は自分の手を見た。

少し荒れた指先。

消毒液の匂いが染みついた手。

その手を見ながら、ふと思った。

――私は、人の役に立つためだけに生きたいんだろうか。



人の役に立つ。

それは素晴らしいことだ。

誰も否定しない。

けれど、

「必要とされること」



「自分がやりたいこと」

は、同じではなかった。

病気になった人を助ける。

弱った人を支える。

できないことを代わりにやる。

不安な人を安心させる。

それは大切な仕事だ。

必要な仕事だ。

遥だって、その仕事を否定したいわけではない。

ただ、いつの間にか、

「必要だからやる」

だけで、一日が埋まっていた。

必要だから働く。

必要だから残業する。

必要だから我慢する。

必要だから笑う。

そして家に帰れば、

必要だから家事をする。

必要だから家族の予定を調整する。

気づけば、

「私は何がしたい?」

という問いだけが、どこにもなかった。



ある休日。

遥は久しぶりに街へ出た。

特に目的はなかった。

ただ、家にいても眠ってしまいそうだった。

駅前の商店街を歩いていると、小さなケーキ屋の前で足を止めた。

ショーケースの中に、苺のショートケーキが並んでいる。

真っ白な生クリーム。

赤い苺。

きめ細かなスポンジ。

その上に、小さなミントの葉。

遥はしばらく眺めていた。

店内から、甘い匂いが流れてくる。

バター。

砂糖。

焼けた小麦。

そして、果物の香り。

その匂いを吸い込んだ瞬間だった。

胸の奥に張りついていたものが、ふっと緩んだ。

「いらっしゃいませ」

店員が声をかける。

「これ、自分たちで焼いてるんですか?」

「はい。朝から全部作っています」

遥はもう一度、ショーケースを見た。

「……いいですね」

店員が笑った。

「ケーキ、お好きなんですか?」

遥は少し考えた。

「好き……なんだと思います」

言ってから、自分でも少し驚いた。

そんなことを考えたことがなかった。

好きなもの。

自分が好きなもの。

仕事ではなく。

家族でもなく。

誰かのためでもなく。

ただ、自分が好きなもの。

遥は苺のショートケーキを一つ買った。



家に帰り、箱を開ける。

ナイフを入れる。

スポンジが柔らかく沈む。

クリームが少しだけ押し出される。

苺を一口。

甘い。

酸っぱい。

生クリームの濃厚さ。

スポンジの卵の香り。

遥は思わず笑った。

「……美味しい」

それだけだった。

誰かを助けたわけではない。

病気を治したわけでもない。

命を救ったわけでもない。

ただ、

美味しい。

それだけ。

でも、その「それだけ」が妙に心地よかった。



それから遥は、ケーキを作り始めた。

最初はスポンジすらまともに膨らまなかった。

焼き上がったケーキは、中央が大きくへこんでいた。

「何これ」

夫が笑った。

「……ケーキ」

「見れば分かるよ」

二人で笑った。

二回目。

今度は膨らみすぎた。

三回目。

焼き色が濃すぎた。

四回目。

少しだけ、それらしくなった。

遥はケーキを切り分けた。

夫が食べる。

「うん」

「どう?」

「ケーキ」

「だから見れば分かるって」

また笑った。

夫は毎回律儀に感想を聞かれ、毎回同じくらい適当に答えた。

それでも、失敗作を残さず平らげることだけは欠かさなかった。

遥は、そのことが少し嬉しかった。



ケーキ作りには、看護の仕事とは違う面白さがあった。

病院では、

間違えないこと。

それが何より大切だった。

薬の量。

点滴の速度。

患者の状態。

記録。

確認。

再確認。

当然だ。

命に関わる仕事なのだから。

でも、ケーキには失敗してもいい余地があった。

卵を何分泡立てるか。

小麦粉をどのくらい混ぜるか。

バターをどこまで溶かすか。

オーブンの温度。

焼き時間。

苺の酸味。

クリームの甘さ。

ほんの少し変えるだけで、味が変わる。

失敗したら、

「なぜだろう」

と考える。

次は少し変えてみる。

また焼く。

また食べる。

また失敗する。

そして、ほんの少しだけ美味しくなる。

その「ほんの少し」が、たまらなく面白かった。

何より、

誰かに正解を教えてもらわなくてもよかった。

自分で考えていい。

自分で決めていい。

失敗してもいい。

遥は、それが嬉しかった。



ある日、夜勤明けの帰り道。

遥はコンビニの前で立ち止まった。

スマートフォンを見る。

病院からの連絡。

勤務表。

来月の夜勤。

休日。

また夜勤。

また早番。

また遅番。

画面を閉じる。

ふと、手を見る。

長年、消毒液に晒されてきた手。

指先が少し荒れている。

その手で、遥はケーキを作っていた。

泡立て器を持つ。

粉を混ぜる。

苺を切る。

クリームを絞る。

そのときだけは、

「誰かのために頑張らなきゃ」

という気持ちがなかった。

ただ、

「もっと上手く作りたい」

と思っていた。

そのことに気づいた瞬間、

遥は立ち止まった。

そして、小さく笑った。

「私、これが好きなんだ」

初めて、自分のために言った。



退職を決めたのは、その一週間後だった。

師長に話すと、驚いた顔をされた。

「もったいないよ」

遥は笑った。

「そうですよね」

「せっかくここまで続けたのに」

「はい」

「次も看護師?」

遥は首を横に振った。

「ケーキ屋さんをやろうと思っています」

師長はしばらく黙った。

「……本気?」

「本気です」

自分でも驚くほど、声がはっきりしていた。

師長は困ったように笑った。

「遥さんらしいね」

「そうですか?」

「うん。頑固だから」

遥も笑った。

「よく言われます」



退職の日。

最後の夜勤を終えた。

ナースステーションを出る。

廊下を歩く。

何度も通った廊下。

何度も開けた病室のドア。

何度も聞いたナースコール。

最後に振り返った。

寂しくないと言えば嘘になる。

ここで過ごした十八年が、簡単に消えるわけではない。

嬉しかったこともあった。

悔しかったこともあった。

助けられた人もいた。

助けてもらったこともあった。

だから遥は、病院に背を向けるのではなく、きちんと振り返った。

そして、小さく頭を下げた。

「ありがとうございました」

それから、病院を出た。



最初の店は、小さなテナントだった。

広くはない。

厨房と、小さなショーケース。

二人掛けのテーブルが二つ。

壁には黒板。

店の名前は、

「ひるね」

にした。

「どうしてこの名前?」

夫に聞かれた。

遥は笑った。

「ケーキを食べるときくらい、みんな何も考えずに休めたらいいなと思って」

「なるほど」

夫は頷いた。

「でも、店の名前としては地味じゃない?」

「いいの」

「まあ、遥らしいけど」

開店準備を手伝いながら、夫は結局三回くらい名前の由来を聞いた。

遥は三回とも同じ答えをした。

最後には、

「もう分かったから」

と笑われた。



開店初日。

朝五時。

遥は厨房に立っていた。

卵を割る。

砂糖を入れる。

泡立て器を回す。

白身が少しずつ変わっていく。

ふわり。

ふわり。

空気を含んで膨らんでいく。

小麦粉を加える。

ゴムベラで切るように混ぜる。

型に流す。

オーブンへ入れる。

扉を閉める。

タイマーをセットする。

遥は腕を組んだ。

しばらくして、

厨房に甘い香りが漂い始めた。

焼けた小麦。

卵。

バター。

砂糖。

少しずつ、香りが強くなる。

遥はオーブンの前に立った。

「いい匂い……」

思わず声が出た。

その香りを嗅ぎながら、遥はふと気づいた。

病院では、朝が来るのが怖い日があった。

夜勤が終わっても、

「また次の勤務がある」

と思っていた。

でも今は違う。

朝が来る。

朝が来たら、

ケーキを焼ける。

そのことが、少し嬉しかった。



午前十時。

店を開ける。

最初の客が入ってきた。

近所の女性だった。

ショーケースを見る。

「どれがおすすめ?」

遥は答えた。

「苺のショートケーキです」

「じゃあ、それ」

ケーキを箱に入れる。

会計をする。

「ありがとうございます」

女性が帰っていく。

遥は窓から、その背中を見送った。

しばらくして、

女性が戻ってきた。

「あの」

「はい?」

「すごく美味しかった」

遥は少し驚いた。

「ありがとうございます」

女性は笑った。

「また来ます」

ドアが閉まる。

遥は厨房へ戻った。

そして、なぜか笑っていた。



それから少しずつ客が増えた。

子どもの誕生日ケーキ。

夫婦の結婚記念日。

仕事帰りに買う小さなプリン。

友達への手土産。

誰かの退院祝い。

誰かの誕生日。

誰かの、

「今日はちょっと頑張ったから」

という理由。

遥は、それが好きだった。

病院では、

誰かが弱ってから会う。

ここでは、

誰かが嬉しい日に会う。

もちろん、悲しい日に来る人もいる。

嫌なことがあった日に、甘いものを買う人もいる。

でも、

ケーキを食べたあとに、

ほんの少しだけ顔が緩む。

それを見るのが、遥は好きだった。



ある夕方。

閉店前の店に、小さな女の子が母親と入ってきた。

ショーケースを覗き込む。

「ママ、これ!」

指差したのは、小さな苺のタルトだった。

「これがいい」

母親が笑う。

「じゃあ、それにしようか」

遥はタルトを箱に入れた。

女の子が小さな声で言った。

「ありがとう」

「どういたしまして」

その言葉を聞いて、遥は少しだけ笑った。

昔と同じ言葉だった。

看護師だった頃、何度も聞いた。

何度も言った。

でも、何かが違っていた。

病院では、

「ありがとう」

と言われるたび、

「もっと頑張らなきゃ」

と思った。

ここでは、

「ありがとう」

と言われると、

「また作ろう」

と思った。

その違いが、遥には嬉しかった。



夜。

店を閉める。

照明を落とす。

厨房だけに明かりを残す。

明日の仕込みを確認する。

卵。

小麦粉。

砂糖。

バター。

苺。

チョコレート。

そして、明日のケーキの予定。

遥はオーブンを拭いた。

窓を少し開ける。

夜の風が入ってくる。

厨房には、昼間焼いたケーキの甘い香りがまだ残っていた。

遥は、看護師だった頃のことを思い出した。

「人の役に立つ仕事をしなさい」

何度も言われた。

それは間違いではなかった。

今でもそう思う。

人を助けることは尊い。

誰かのために働くことも、素晴らしい。

ただ、

それだけを自分の生きる理由にしなくてもよかった。

好きだから。

作りたいから。

美味しいものを食べると嬉しいから。

朝、オーブンを開けるのが楽しみだから。

そんな理由でも、よかった。



翌朝。

まだ店を開ける前。

遥は一人、厨房に立っていた。

オーブンのスイッチを入れる。

卵を割る。

砂糖を量る。

小麦粉をふるう。

ボウルの中で、生地がゆっくりと形を変えていく。

型に流す。

オーブンに入れる。

扉を閉める。

しばらくして、

甘い香りが立ち上った。

焼けた小麦の香り。

卵の香り。

バターの香り。

砂糖が焼ける、少し香ばしい匂い。

遥は目を閉じた。

深く息を吸う。

肺いっぱいに、甘い空気が入ってくる。

窓の外では、朝の町が動き始めていた。

新聞配達のバイク。

遠くを走る車。

犬の鳴き声。

誰かのシャッターが開く音。

その町の片隅で、

小さなケーキ屋から、

焼きたてのスポンジの香りが流れ出していく。

遥はオーブンの扉を開けた。

ふわり、と熱気が顔に当たる。

焼き上がったスポンジを取り出す。

表面はきれいなきつね色。

指先でそっと押す。

ふわっ、と戻る。

遥は笑った。

「今日も、いいのが焼けた」

店のドアを開ける。

朝の風が入ってくる。

焼きたてのケーキの香りが、

厨房から店内へ。

店内から通りへ。

通りから、まだ誰も知らない朝の町へ。

甘く。

温かく。

香ばしく。

遠くで、誰かが言った。

「なんか、いい匂いするな」

遥は小さく笑った。

返事はしなかった。

ただ、もう一度だけ深く息を吸った。

そして思った。

――明日も、焼こう。

それでいい。

それだけでいい。

いいなと思ったら応援しよう!