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花は黙って咲いている



朝の花屋には、不思議な静けさがある。

シャッターを開ける音。

冷蔵ケースから流れる低いモーター音。

バケツの水面が揺れる小さな波紋。

そして、まだ誰にも選ばれていない花たちの、凛とした佇まい。

店長の高橋は、一本の白いユリをそっと持ち上げた。

「今日もよろしく。」

返事はない。

もちろん、花はしゃべらない。

けれど、毎朝そう声をかけるのが、店を任されてからの習慣だった。



開店から一時間。

店は一気に忙しくなった。

「送別用の花束をお願いできますか?」

「午後までにスタンド花を二基。」

「母の誕生日なんです。」

注文が重なる。

新人スタッフの遥は、額に汗を浮かべながらオアシスを切っていた。

「店長、リボンはこれで合っていますか?」

その瞬間だった。

「今じゃないでしょう。」

低く、冷たい声が店内を横切る。

ベテランスタッフの久保だった。

遥は肩を震わせる。

「す、すみません……。」

高橋は何も言わなかった。

いや、言えなかった。



久保は腕が良かった。

花束は美しい。

色合わせも見事。

お客様からの指名もある。

だが、忙しくなるほど、表情が変わる。

返事は短くなり、ため息が増え、店の空気は曇る。

「そこ、邪魔。」

「早くしてください。」

「見れば分かりますよね。」

その一言一言が、花びらではなく、小さな棘のように人の心へ刺さっていく。



ある日の昼。

一人の少女が店に入ってきた。

ランドセルを背負ったまま、小さな財布を両手で握りしめている。

「お母さんに、お花を買いたいです。」

高橋はしゃがみ込み、笑顔で尋ねた。

「ありがとう。どんなお花が好きなのかな?」

少女が嬉しそうに話し始めた、その時だった。

「注文が先です。」

久保の声。

少女の笑顔が止まる。

財布を握る指に力が入った。

高橋は静かに立ち上がった。

「久保さん。」

「……。」

「この子は、お客様です。」

「でも順番が──」

「この子も、お客様です。」

店内が静まり返った。

久保は何も言わず、作業へ戻った。

少女は最後まで遠慮がちだった。

花束を抱えて帰る背中を見送りながら、高橋は胸の奥に重い石を抱えた。



その夜。

閉店後の店には、切り落とされた茎の青い香りだけが残っていた。

「少し話せますか。」

高橋は久保に椅子を勧めた。

「またですか。」

「ええ。」

「私は仕事をしています。」

「それは分かっています。」

「だったら問題ないですよね。」

高橋は首を横に振った。

「問題は、仕事だけではありません。」

久保は鼻で笑った。

「花屋なんだから、花がきれいならいいでしょう。」

高橋は一本のガーベラを手に取った。

「この花、昨日届いたばかりなんです。」

「だから?」

「毎朝、水を替えて、茎を切って、温度を見て、光を調整する。」

「……。」

「花は、文句を言わない。」

久保は黙っていた。

「忙しい日も。」

「暑い日も。」

「売れ残る日も。」

「花は、自分の機嫌で香りを変えたりしません。」

静かな店に、冷蔵ケースの音だけが響いていた。



それから数週間。

何も変わらなかった。

いや、変わったことが一つだけあった。

誰も久保へ話しかけなくなった。

質問は店長へ。

相談も店長へ。

休憩も別々。

笑い声が聞こえる輪の中に、久保はいなかった。

誰かが仲間外れにしたわけではない。

自然だった。

雨の日に、水が低い場所へ流れるように。

人の心もまた、安心できる場所へ集まっていく。



ある朝。

遥が店長に言った。

「最近、仕事が楽しいです。」

「そう?」

「はい。前は毎日、誰かの顔色を見ていました。」

高橋は答えられなかった。

嬉しいはずなのに。

その言葉は、どこか苦かった。



その年の冬。

久保は退職届を机へ置いた。

「もう限界です。」

高橋は静かに受け取った。

「理由を聞いても?」

久保は唇を噛み、目を伏せた。

「誰も私を分かってくれない。」

高橋は否定しなかった。

「そう感じていたんですね。」

「私は悪くありません。」

その言葉だけは、最後まで変わらなかった。



最終日。

花束を抱えたお客様が何人も店を訪れた。

「長い間ありがとう。」

「元気でね。」

そんな言葉が飛び交うことはなかった。

店はいつも通り営業していた。

久保はロッカーを閉める。

少しだけ立ち止まる。

誰かが呼び止めてくれる気がした。

「寂しくなるね。」

その一言を待っていた。

だが、聞こえてくるのは、花を包む紙の音だけだった。

高橋が歩み寄る。

「お疲れさまでした。」

短い言葉。

久保は小さくうなずき、店を出た。

自動ドアが閉まる。

冬の風が頬を撫でた。

駐車場で足が止まる。

涙が一粒、アスファルトへ落ちた。

「どうして……。」

答えは、ずっと前から聞いていた。

けれど、その答えを受け入れることだけは、最後までできなかった。



春になった。

店先には色とりどりの花が並び、新人だった遥は、もう新人ではなくなっていた。

店内には笑い声が戻っていた。

忙しい日は相変わらず忙しい。

花束は山のように積まれる。

それでも、誰もため息で店を曇らせることはなかった。

閉店後、高橋は一輪のチューリップに水をやる。

花は何も言わない。

ただ、今日も静かに咲いている。

高橋は微笑んだ。

「人は、自分の機嫌で世界を曇らせることができる。」

「でも、花は違う。」

「花は、黙って咲いている。」

店の灯りが消える。

暗くなった店内で、花たちは変わらず美しく、静かに朝を待っていた。



※この物語はフィクションです。登場人物・団体・出来事はすべて創作であり、実在の人物や組織とは関係ありません。

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