ギャンブルコンテンツはなぜウケないのか?(結論)
前回「ギャンブルコンテンツはなぜウケないのか?」を書いてそれはギャンブルが人間にとって「毒」だから、思わず吐き出してしまうのではないか?しかしフグの肝と同じで使い方によってはとんでもなく美味になる可能性があるかもしれない、と書いた。
ある意味そうなのかもしれない、とは今でもそう思っていながらその後もグジグジと考え続けていた。”人にウケない”ということもあるが”作っている自分がどうも好きになれない”ということもありそれはなぜなのか?を考えていた。僕は自分の作っているものが基本的には好きだ。電波少年のどの放送もウリナリ!も雷波少年も“NO BORDER"もみんなのテレビの記憶もその多寡に違いはあれど好きである。その中でこの「世界百周」のビデオはかなり好きでない。なぜか?どこのシーンか?いうまでもなくバカラをやっているシーンである。それも僕のリアクション。勝ったときに喜び、負けたときに悲しんだり悔しがったりする。大きく勝てば大きく喜び大きく負ければ大きく悔しがる。この顔が汚い!顔が汚いのは生まれつきだが醜いに近い。
お金の勝ち負けに一喜一憂している顔が醜い、と思えるのだ。それもその額に比例してって・・・当たり前か?普通か!なんじゃその反応は?
だから好きじゃないんじゃないか?これが人の気持ちに一喜一憂しているのであればそれほどきっと醜くはない。人の成功や失敗に一喜一憂しているのであれば・・・金ってなんじゃそれは!
ということではないか?と考えが至った。
金を得たまたは失った!この反応は絵が汚い!だから好きでない、と思っているのではないか?
さらに進む。では金ではなく”自分の読み”ならどうか?自分の読みが当たった!外れた!の一喜一憂は醜くないのかもしれない。やってみるか?
世にあるバカラ動画ではどうか?確かに金の多寡で一喜一憂しているものは醜いのだ。しかしそれを超越しているものがある。キャラクターにもよるのだが勝ち負けそのもので一喜一憂しているように見えるものはそんなに醜くはない。楽しく見れたりする。
こんなことをコンテンツを作る人間は考えていたりする。自分の作った物の中に次のヒントはある。それを見ない、または気がつこうとしない人間はいつまでも面白いものは作れない。
2周目はゲームを撮影するのをやめようか?
または金ではなく「読み」で一喜一憂する顔を撮影できるか挑んでみるか?
