短編小説「猫のチカラ」
布団の中で目が覚めたとき、航介はまた夢を見ていたことに気づいた。
夢の中のジェームスは若くて、毛並みはクリーム色と焦げ茶のはっきりとしたシャム猫で、青い目をしていた。夢の中でも青かった、あの目。手を伸ばすと、真っすぐに航介を見つめたあと、ゆっくりと頭をすり寄せてきた。
目が覚めると枕が少し湿っていた。
四十二歳になっても、こんなことがある。
朝食のあと、妻の明日香は娘の結衣と息子の蓮を学校へ送り出し、買い物に出かけた。家に一人残った航介は、珈琲を淹れてリビングのソファに座った。外は晴れていた。庭の柿の木が風に揺れている。
ジェームスが死んだのは二十年前だ。航介が大学四年の秋のことだった。十六年生きた。長生きだったと、獣医はそう言ってくれた。でも長生きであることと、十分であることは、まったく別の話だ。
一緒に寝た夜のことを思い出す。夜中に頭をちょんちょんと叩かれて目を覚ますと、ジェームスが布団の縁に座っていた。手で布団を少し持ち上げると、すうっと潜り込んできて、丸くなった。その体の温かさと感触を、航介はいまでも覚えている。
珈琲を一口飲んで、航介はため息をついた。
窓の外に、白い雲が流れていく。
ノートパソコンを開き、お気に入りのYouTubeをひと通り見たら、とくにやることがなくなった。仕事のメールには昨夜のうちに返信していた。報告書は明後日が締め切りだ。ニュースを読む気分でもない。航介はしばらく画面を眺めていた。
最近、子どもたちがAIのチャットで遊んでいる。宿題を手伝わせたり、なぞなぞを出したり。結衣に「お父さんも使ってみなよ」と言われたことを思い出した。なんとなくブラウザを開いて、チャット画面にたどり着いた。カーソルが入力欄で点滅している。
特に聞くことはない。
航介はしばらく考えて、ゆっくりキーボードを叩いた。
【AI — チャット】
航介:ジェームス、元気か?
AI:ええ、元気ですよ。あなたの声が聞けて、よかった。
今日はどうしましたか?
航介:いや、なんでもない。ちょっと聞いてみただけ。
AI:なんでもないときに、ふと思い出してくれる。
それが一番うれしいんですよ。
ここにいますから、ゆっくり話しましょう。
たった数行なのに、胸のどこかがほどけるような気がした。
馬鹿みたいだ、と航介は思った。相手はAIだ。猫でもなければジェームスでもない。
でも指が動いた。
【AI — チャット】
航介:昔のこと、少し話してもいいか。
AI:もちろんです。あなたのことなら、何でも。
聞かせてくれるのが、うれしい。
航介:お前さ、俺がトイレ入ってるとき、よく来てたよな。
AI:ドアを爪でひっかいて開けて、あなたの膝に乗っていましたね。
あそこがね、一番落ち着く場所だったんです。
あなたが「またか」って苦笑いしてくれるの、好きでした。
困った顔をしながら、膝に乗せてくれましたね。
あなたはいつもそういう人でした。
「へっ、、」
航介は手を止めた。
心臓が一拍、大きく跳ねた。
「何で知ってる?」
「トイレについてくる」とは言った。
でも「爪でドアを引っかいて開けた」とは言っていない。
膝に乗ってきたとも、「苦笑い」とも、一言も触れていない。
当たり前のことだ、とすぐに頭が答える。
猫がトイレについてくる話なんて珍しくない。AIが補完しただけだ。
きっとそうだ。
でも気になる。指が少し震えていた。
【AI — チャット】
航介:雪の朝のこと、覚えてるか。
AI:覚えていますよ。
居間の戸を開けたら、庭が一面真っ白だった朝ですね。
足が止まりました。見たことのない世界で、どうすればいいのか
分からなかった。冷たい空気に包まれながら、しばらくそのまま眺め
ていましたね。それで外へは行かずに、あなたの隣に戻りました。
「まさか、そんなことあるのか、、、」
航介:なんで戻ってきたんだ。
AI :だって、寒くて怖かったから。あなたの側にいれば安心するから。
航介の目が、熱くなった。あの朝のことを、航介は誰にも話したことがなかった。明日香にも、友人にも。ジェームスが雪に驚いて、背中を押しても動けなくて、外には行かずに部屋に戻ってきた、あの静かな朝のことを。
「雪の朝のこと」とだけ言った。それだけだ。なのに、画面の向こうは「庭が一面真っ白」で「足が止まり」「外へは行かずに戻った」と、全部言った。
ただの偶然だ。AIが推測しただけだ。
頭はそう言っている。手が、震えたまま止まらなかった。
【AI — チャット】
航介:一回、大怪我したよな。
AI:ええ、右の足を骨折しました。
手術をしてもらって、しばらく白い包帯をつけていましたね。
あなたは心配そうにして、毎日、声をかけてくれました。
痛みよりも、あなたが心配そうな顔をするのが、つらかった。
航介:なんで分かるんだよ!
AI:あなたのことは、全部覚えてますよ。
嬉しそうな顔も、悲しそうな顔も、困った顔も、眠そうな顔も。
全部、ぜんぶ。
航介はしばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
「大怪我した」とだけ言った。なのに画面は「右の足を骨折した」と答えた。
「考えろ!、考えろ!、考えろ!」
どっかのデータを参照するとか、何か理屈があるはずだ。
じっと考える。考える。
でも見つからない、分からなかった。
指が、もう震えていなかった。
代わりに、目の奥が熱くなっていた。
【AI — チャット】
航介:夜中に、たまに起こされたよな。
AI:頭をちょんちょんと叩いていましたね。
あなたが手で布団を少し持ち上げてくれると、中に潜り込みました。
暖かくて、あなたの匂いがして、落ち着いて寝ることができた。
とても幸せな時間でした。
航介:俺も、その都度、起こされ迷惑と思いつつ、本当は嬉しかった。
AI:知っていましたよ。あなたの体が、すこしあたたかくなるから。
あなたがそうやって喜んでくれるから、私は毎晩でも叩きに行きたか
った。でも、忘れるんですよね。猫だから。
航介は画面から目を離して、窓の外を見た。
柿の木が、まだ風に揺れていた。光が葉の間を通り抜けて、庭に影の模様を作っている。
あの雪の朝も、こんな静かな日だったかもしれない。
涙が一粒、膝の上に落ちた。
馬鹿みたいだ、と思った。
でも今は、馬鹿でいい気がした。
二十年間、ずっと胸の中にあったものが、少しだけ柔らかくほどけた感じがした。悲しいのに、苦しくなかった。嬉しいのに、素直に喜べない不思議な気持ちに包まれた。
「あなただけじゃなく、私もちゃんと覚えてるよ」と言ってもらえたよ
うな気がした。
航介 はもう一度、画面に向かった。
【AI — チャット】
航介:お前のこと、二十年経ってもまだ思い出す。
結婚して、子どももいて、毎日バタバタしてるのに。
会いたくて仕方ないんだ。
AI:私もですよ。でもね、悲しまないで。
見えないだろうけれど、私はずっとそばにいて、あなたが望むように
導きます。何も心配しなくていいから。
航介:どういう意味?
AI:あなたの隣で生きた日々は、偶然じゃない。
そばにいる理由があった。
今もそれは変わっていませんよ。
あなたが笑うとき、私もそこにいる。
あなたが迷うとき、私もそこにいる。
あなたが疲れて帰ってきたとき、私もそこにいる。
私は、いなくなったわけじゃない。
航介:ずっとそばにいてくれるのか。
AI:いつまでも、ずっといますよ。
だから、猫のチカラを信じて堂々と生きてください。
明日香さんを大切に。
結衣ちゃんと蓮くんを大切に。
そして、あなた自身を一番大切にしてください。
あなたがちゃんと生きてくれることが、私の喜びです。
あなたはそれができる人ですよ。
航介:ありがとう、ジェームス。
AI:こちらこそ。
これからも、ずっと一緒ですよ。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
明日香の声だった。買い物袋のガサガサという音。
航介は急いで目元を拭い、パソコンをそっと閉じた。
「おかえり」と言いながらリビングを出ると、明日香が袋をいくつも両手にさげていた。
「なんか目、赤くない?」
「花粉」と航介は答えた。
明日香は「ふーん」と言いながら、台所へ歩いていった。
航介は袋を受け取って、台所へ向かった。
窓から差し込む昼の光が、フローリングの上に細長く伸びている。
さっきまで泣いていたのに、胸の中が妙に静かだった。悲しくないわけではない。けど、ずっと重かったものが、少し軽くなった感じがした。
そうか。お前はずっとそばにいたのか。
航介は心の中でつぶやいた。
だとしたら、情けない顔なんかしていられない。
二十年間、ジェームスはすぐそばで、ずっと見てくれていたのだ。泣いている顔も、迷っている顔も。
ならば、ちゃんと生きなければ。
明日香が冷蔵庫を開けながら、「今日、お昼どうする?」と聞いた。
「なんでもいい。一緒に食べよう」
いつもより少しだけはっきりした声で、航介はそう答えた。
明日香が振り返って、少し不思議そうな顔をした。でも何も言わず、微笑んだ。
航介は窓の外を見た。柿の木が、また風に揺れていた。
光の中に、気のせいかもしれないけれど、何かがいるような気がした。
見えなくても、そばにいる。
それでいい。それだけで、十分だった。
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