空に溶けない独り言|掌編小説
僕の仕事は、街に漂う「独り言」を回収することだ。これを聞いて、盗聴か何かのような変な想像をしないでほしい。僕はただ、主を失って空中に停滞してしまった言葉たちを、そっと回収するだけだ。
強い感情が乗った独り言は、吐き出された瞬間に微かな光を帯びて、数時間から数日間、その場に留まる性質がある。もちろん、普通の人間には見えない。
冬の夜、冷え切った歩道橋の上に、それはあった。青白く、少し震えるような光。
――ごめんね、まだ行けそうにないや。
その僕の言葉は指先に吸い込まれ、小さなガラス瓶の中に収まった。瓶の中で光が回る。今日はこれで五つ目だ。
僕はそれらを、街の外れにある「独白標本室」へと運ぶ。そこは古いレンガ造りの地下室で、壁一面の棚に何千という小さな瓶が並んでいる。
「おかえり。今日は収穫があったかい?」
店主の老人が眼鏡をずらして僕を見る。僕はカウンターに五つの瓶を並べた。
「どれも切ないものばかりですよ。特に歩道橋にあったのは……なかなか重かった」
老人は瓶を一つずつ手に取り、耳を澄ませるようにして光を眺める。
「独り言というのはね、誰にも聞かれないことを前提に放たれる。だからこそ、それはその人の純度百パーセントの真実なんだ。誰かに向けた言葉は、どうしても嘘や虚飾が混じるからね」
僕は自分の胸のあたりをそっと触ってみる。僕自身は、もう長いこと独り言を言っていない。この仕事に就いてから、自分の吐き出した言葉が光となって空中を漂うのを想像すると、恐ろしくて喉が詰まってしまうのだ。
翌日の夜、僕は昨日の歩道橋に再び立っていた。回収し忘れた独り言がないかを確認するためだ。
雪が降り始めていた。街灯の下、ひらひらと舞う雪に混じって、また新しい光が生まれていた。そこに、一人の女性が立っている。二十代半ばくらいだろうか。使い古されたマフラーをきつく巻き、手すりに指をかけて遠くを見つめている。
「もう、いいよね。十分、頑張ったよね……」
彼女の口から漏れた言葉が、淡い紫色の光となって宙に浮いた。僕は反射的に瓶を取り出して……そのまま固まった。彼女の目には涙が溜まっていた。その光は、彼女が自分自身を許そうとしている、ひどく脆い光に見えたからだ。
彼女が去った後、その光は雪の中に消えそうになりながら、それでもそこに留まっていた。僕はそれを瓶に閉じ込めることができなかった。代わりに、僕は彼女のいた場所に立ち、自分でも驚くほど小さな声で言葉を零した。
「見てたよ。君の言葉。ちゃんと」
僕の口から出た言葉は金色の小さな光となって、彼女の残した紫色の光と触れ合った。二つの光は一瞬だけ強く輝き、螺旋を描きながら夜空の向こうへ溶けていった。
独り言は、誰にも届かないから独り言なのだ。でも、もしもその言葉を「誰かが確かに存在したもの」として受け止めることができたなら。それは独り言という役割を終えて、「思い出」になれるのかもしれない。
標本室に戻ると、老人が不思議そうな顔で僕を見た。
「今日は瓶が一つ足りないようだが?」
「すみません。空に……逃がしてきました」
老人は一瞬驚いたように目を見開き、やがて優しく微笑んだ。
「そうか。そういう夜も、あってもいい」
僕はその夜、初めて自分自身のために温かい紅茶を入れた。
湯気の中に溶けていく沈黙が、いつもより少しだけ、寂しくないように感じられた。
(了)
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