紫陽花と転校生|短編小説
【作品紹介】
中学二年生の悠は、梅雨の毎日を憂鬱に過ごしていた、そんな時、悠のクラスに牧野泉美が転校してきた。 不思議な雰囲気をまとう泉美を、クラスの男子と悠は遠巻きに見ていた。そして、ある日の放課後、昇降口でぼーっと雨を見つめている悠に、泉美が声をかける。
「紫陽花って、雨が降ると色が変わるんだよ?」
翌日の放課後から悠と泉美の、紫陽花を見るための秘密の散歩が始まった…。
下校中、紫陽花をバカでかいカメラで、にやにやしながら撮っている人がいた。傘もささず、雨に濡れながら。
――よくやるよ。
六月。梅雨。世界が灰色の膜に覆われる季節。湿度を含んだ生温い風が肌にまとわりつき、肺の中まで湿っぽくさせる。毎日が憂鬱で、何をするにも億劫だ。僕にとって紫陽花は、ただの雨に濡れる花でしかなく、ましてやわざわざ写真に撮ろうなんて思わない。
紫陽花がどんなに綺麗でも、中学二年の僕から見た世界はモノクロームで、特別な色があるわけではない。しかも、何を見てもピンボケで、クラスメイトの顔が全員同じように見える。
そんな僕に色彩をもたらす人物が突然、転校生としてやってきた。
「牧野泉美です。よろしくお願いします」
その声は、雨上がりの空気を震わせるように澄んでいた。制服に身を包んだ彼女は、真っ直ぐに背筋を伸ばしていた。艶のある黒髪は梅雨の湿気にも負けずさらりとしたストレートで、肩甲骨のあたりまで流れている。
何よりも目を引いたのは、その大きな瞳だ。まるで雨上がりの空をそのまま閉じ込めたかのように透明で、まっすぐ前を見据えている。そして、話し始めると、はきはきとした明るい声が教室に響いた。
「転校生、可愛いな」
「やべぇ、超タイプ」
後方の席に座っていた男子たちが、我先にと小さく呟き合う声が聞こえた。僕も彼女から目を離せなかった。
彼女のまとう空気はどこか浮世離れしているというか、少し不思議な感じがした。窓際の席で、ただ雨が降るのを見つめていることが多く、何を考えているのかよく分からない。最初こそ色めき立っていたクラスの男子も、彼女の近寄りがたい雰囲気にだんだんと気圧されたのか、今では彼女のことを少し遠巻きに見ては、時折ひそひそと何かを囁き合っていた。
僕はというと、彼女に話しかけたいと思いながらも、どうしても会話の糸口が見つけられず、やっぱり他の男子と同じく、遠巻きに見るしかなかった。
そんな僕に彼女が話しかけてきたのは、ザーザー降りの雨で、帰ることすら面倒で、ただ呆然と立ち尽くしている放課後の昇降口だった。
「紫陽花、きれいね」
「え……?」
あまりにも突然のことで、完全に思考が停止する。彼女の視線の先を辿ると、昇降口の横にある花壇に行き着いた。
――ああ、あの紫陽花か。
どうやら彼女は、僕が紫陽花を見ていると思ったらしい。
「そうだね、きれいだね」
とりあえず会話を合わせようとして、心にもないことを言ってしまった。
「紫陽花って、雨が降ると色が変わるんだよ?」
「え? あ……そうなの?」
「うん。私が生まれた町にはね、紫陽花は雨の妖精が宿る花だって言い伝えがあるの。雨が降るたびに、妖精たちが紫陽花の色を変えるんだって」
「へぇ」
――雨の妖精。
そんなメルヘンじみた話がこの現実の世界にあるなんて信じられない。でも、彼女の横顔は真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
「あ、信じてないんだー!」
「いや、信じてないっていうか……紫陽花って、科学的には土のpH値で決まるって習ったから」
「もう、夢がないなぁ」
泉美はいたずらっぽく笑った。
「じゃあさ、悠君。明日、一緒に見に行こうよ。雨が降ったら、きっと今日とは違う色になってるはずだから」
自然に名前を呼ばれ、心臓が変な音を立てた。彼女の瞳に見つめられると、ピントの合わなかった僕の世界が、急に鮮明な解像度を持ち始めるような気がした。
翌日から僕と泉美の、紫陽花を巡る秘密の散歩が始まった。
僕らは放課後になると、校舎の裏や通学路の片隅に咲く紫陽花を見て回った。雨の日も、曇りの日も、晴れの日も。泉美は毎日、違う紫陽花の色を教えてくれた。昨日は青かった花が、今日は少しだけ紫がかっている、とか。蕾だった花が、雨上がりの朝には鮮やかな薄紫に変わっている、とか。
様々な色の紫陽花が、雨粒を弾いてきらきらと輝いている。そんな、色とりどりの紫陽花を見ていると、本当に雨の妖精が宿っている気がした。
彼女の目を通して見る紫陽花は、まるで生きているかのように、刻一刻と表情を変えているように見えた。
僕は泉美を通して、初めて世界が持つ繊細なグラデーションを知った。それまでの僕の世界は、「雨」と「晴れ」の二択だったが、彼女と出会ってからは、霧雨や通り雨、小雨の後の空気の匂いまでが意味を持つようになった。
「ねぇ、悠。紫陽花の花言葉って知ってる?」
ある日、彼女は少し俯き加減で尋ねてきた。僕が首を横に振ると、彼女はそっと花に触れる。
「『移り気』とか『浮気』って言われることも多いけど、本当は『辛抱強い愛』とか、『元気な女性』って意味もあるんだよ?」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「でも、私が一番好きなのは『ひたむきな愛』かな」
「そう……なんだ」
僕はそう返すのが精一杯だった。彼女がなぜ突然、紫陽花の花言葉の話をしたのかは分からない。でも、彼女の横顔を見ていると、僕の世界の色も鮮やかに変わっていくのを感じていた。梅雨も雨も嫌いで、ましてや紫陽花にも花言葉にも全然興味なかったけど、今ではすっかり紫陽花に目が行くようになった。
雨に濡れながら軽いステップを踏む泉美を、目で追いかける自分がいた。
「見て、あの紫陽花。きっと今夜、妖精たちが新しい色をくれるよ?」
そう言いながら微笑む泉美は、いつも僕に色を与えてくれる。彼女といると、雨の日ですらどこか特別で、彩りのある一日に変わってしまう。
僕らは、二人だけの秘密を共有している気分だった。
「泉美が生まれた町って、どんなところなの?」
一度だけ、そう尋ねたことがある。彼女は一瞬、表情を曇らせた。
「すごく雨が多いところ。それで、紫陽花の色が一番大事なものだったの」
彼女の故郷は、観光地として有名な紫陽花の名所だった。毎年、梅雨の時期になると、その紫陽花の色によって町の運勢やその年の豊作までもが占われるという、古い因習が残っているらしい。泉美の家は、その紫陽花を管理する特別な家系で、彼女自身がその伝統から逃れようともがいていたことを、この時、僕はまだ知らなかった。
それ以上は、彼女も僕も、その話題に触れようとしなかった。でも、その時の泉美の瞳の奥に、ほんの少しだけ、雨粒のような光が揺れていた気がした。
梅雨の終わりが近づいた、ある土曜日の午後。 湿度をたっぷりと含んだ風が、彼女の髪を重たげに揺らしていた。いつもなら雨粒を弾くように笑う泉美が、今日は曇天の空よりも深く沈んで見えた。
「どうしたの? 紫陽花、今日も元気に咲いてるよ?」
僕が努めて明るく言うと、泉美は校舎裏の花壇に咲く、まだ色の定まらない白い紫陽花にそっと手を触れた。
「ねぇ、悠。紫陽花の色が変わる理由、本当にpH値だけだと思う?」
「え、他に何があるの?」
「私が生まれた町の言い伝えではね、紫陽花の色は、『人が流した涙』の色を映すんだって。悲しい涙は青に、嬉しい涙は薄い紫に、そして、希望の涙は燃えるような赤に……」
泉美が何を言いたいのかは分からなかったが、僕は黙って続きを待った。
「白く、まだ色が定まらない花は、『まだ誰も知らない涙』の色。つまり、まだ流されていない、隠された感情の色なの」
その話を聞いた瞬間、僕の胸が締め付けられた。泉美の瞳の奥に、僕が以前見た、雨粒のような光が揺れている。もしかするとそれは、彼女自身の、まだ流されていない涙だったのかもしれない。
「ねぇ、泉美。君は、どんな涙を隠してるの?」
僕は勇気を出して尋ねた。泉美は、白から青へと変わりかけの紫陽花をじっと見つめ、そして、僕に向き直った。その目には、確かに決壊寸前の湖のような、切ない光が宿っていた。
「私、また転校するんだ」
その言葉は、梅雨明けを告げる太陽のように、僕の心を容赦なく焦がした。
「お父さんの仕事の関係で、また遠くへ行かなきゃいけないの。そこは潮風が強くて、紫陽花があまり咲かない場所なんだって」
僕の視界が一瞬、雨に濡れたガラス窓のように歪んだ。胸の奥に、今まで感じたことのない鈍い痛みが広がった。
「いつ……いつ行くの?」
「明後日。だから今日が、悠と紫陽花を見られる最後の日」
泉美は目を伏せた。僕は何も言うことができず、ただ彼女の横顔を見つめる。
「私ね、悠と出会うまで、自分の世界はずっと青色だと思ってた。悲しくて、寂しくて。でも、私が泣いてしまったら、故郷の言い伝え通り、周りの紫陽花まで悲しみの青に、涙の色に染まってしまう気がして……ずっと怖かった。泣かないように、感情を殺して生きてきた。でも、悠と出会ってからの毎日は、雨の日も梅雨のじめじめも、何もかもプリズムみたいに輝いて見えたんだ。だから……この紫陽花だけは、青くならないでって願ってたのに」
彼女の声が、雨音のように静かに響く。
何もかもがプリズムに見えたのは、むしろ僕の方だ。モノクロームの世界から僕を連れ出してくれた泉美に、何もできない自分が情けなかった。
「泉美……」
僕は手を伸ばそうとしたが、彼女は小さく首を振って一歩下がった。その顔には、無理やり作った笑顔が張り付いている。
「さよなら、悠。私の涙で、あなたの世界まで青く染めたくないの」
彼女は背を向け、走り去った。 残されたのは僕と、一輪の紫陽花だけ。 ふと見ると、泉美が触れていた白い紫陽花は、まるで吸い取ったインクが滲むように、見る見るうちに深く、冷たい青色へと染まり始めていた。
翌日、僕は泉美は学校に来なかった。
僕は一人で、校舎裏の紫陽花を見に行った。昨日、僕と泉美が一緒に見た紫陽花は、濃い青色に変わっていた。泉美が流した涙の純度と、僕が感じた別れの痛みが、そのまま色になったように。
僕はその青い紫陽花の前で立ち尽くした。梅雨が明け、太陽がジリジリと照り付けているのに、僕の心の中だけは冷たい雨が降っていた。
「悲しい涙は、青に……」
泉美の言葉が蘇る。
僕の目から、自然と涙が溢れ出した。大粒の涙が地面に、そして、青い紫陽花の花びらに落ちる。僕が流した涙は紫陽花の色を変えることはなかった。既に、深い青に染まってしまっていたから。
その日から、僕は青い紫陽花を避けるようになった。それは、泉美との別れを思い出す、悲しい色だったから。
僕の世界は、再びモノクロームに戻った。紫陽花は、雨に濡れるただの「花」になった。ただ、色が鮮やかになった分、以前よりも寂しさが際立っていた。
夏が過ぎ、秋が深まり、そして冬が来た。季節は移り変わり、紫陽花の花は枯れ、枝だけが残された。
僕は泉美が言っていた紫陽花の花言葉を調べた。
辛抱強い愛、ひたむきな愛、そして、元気な女性。
――元気でいてくれるだろうか。
僕は泉美のいない世界で、ただひたむきに、彼女との再会を待ち望んでいた。
泉美がいなくなってから、僕は少し変わった。それまではただ「つまらない」と思っていた雨の日を、泉美が教えてくれたように、一つ一つの色、一滴一滴の雨音に意味を見つけようと努めた。それは、泉美が僕に残してくれた、世界を見るための「眼鏡」だった。別れは辛い青色だったけれど、彼女がくれた日々は、僕の人生にとって確かな彩りを添えてくれたのだ。
季節は巡り、再び梅雨が始まった。
中学三年生になった僕は、受験勉強で忙しい日々を送っていた。紫陽花に目をやる余裕もなく、雨の日を以前のように憂鬱に感じていた。
ある日の夕暮れ。激しい雨が上がり、西の空がオレンジ色に染まり始めた頃だった。自転車を漕ぎながら空を見上げると、虹が架かっていた。鮮やかで七色の光を放つ、巨大なアーチ。
自転車を止め、空を見上げる。
「もしかして、虹も妖精たちの仕業か?」
ひとり、呟く。
泉美が言っていた、紫陽花が雨の妖精の宿る花だという話。虹も、きっと彼女の町の言い伝えでは、特別な意味を持っているに違いない。
知らない町に行ってしまった泉美も、今、どこかでこの虹を見ているのだろうか。遠い海辺の町で、紫陽花のない景色の中で、この虹を見上げているだろうか。
ふと、道路脇の花壇が目に入った。新しく植えられたばかりの、真新しい白い紫陽花がある。その花はまだ、どの色にも染まっていなかった。この紫陽花は、明日になったらどんな色になるんだろう。また、青――涙の色になってしまうのだろうか。
僕は白い花を見つめながら、心の中で強く願った。
――青以外に、なってくれ。
白い紫陽花に、一筋の雨上がりの光が差し込む。その光を受けて、花びらがキラキラと輝いた。
「きっと青にはならないよ。信じる?」
背後から懐かしい声がした。 心臓が大きく跳ね上がり、息が止まる。
幻聴かと思った。振り返るのが怖い。もし振り返って誰もいなかったら、僕は今度こそ立ち直れないかもしれない。
「……ああ、信じるよ」
僕は震える声で、やっとの思いで答えた。 砂利を踏む音が近づいてくる。そして、僕の隣にその気配が並んだ。
「海辺の町にはね、本当に紫陽花がなかったの」
間違いなく、泉美の声だ。少し大人びたけれど、あの頃と同じ、雨上がりの空気のような澄んだ声。
「だから私、一年かけてお父さんを説得したの。どうしても見たい色があるから、あの町に戻りたいって」
「見たい色……?」
僕はようやく彼女の方を向いた。 そこには、少し髪が伸びた泉美が立っていた。夕焼けを背負い、逆光の中で微笑んでいる。
「うん。悲しい青色じゃなくて、もっと強くて優しい色」
泉美は僕の横を通り過ぎ、白い紫陽花の前でしゃがみ込んだ。 彼女の頬を、一筋の涙が伝う。でもそれは、悲しみの涙ではなかった。 夕日が彼女の涙を照らし、その光が白い紫陽花に反射する。
「見て、悠」
彼女の涙が花弁に落ちた、その瞬間。白い紫陽花が魔法のように色を変えた。夕焼けのオレンジ色色と、涙の色が溶け合った、鮮やかで高貴な紫色。
――嬉しい涙の色。
泉美が振り返る。 涙で濡れた彼女の笑顔は、雨上がりの虹よりも眩しく、僕の視界のピントを全て奪い去った。
「ただいま、悠。やっと、本当の色が見つかったよ」
僕の目からも、熱いものが溢れ出した。 涙の向こうで、紫色の紫陽花が揺れている。 それはもう、憂鬱な雨の色ではなかった。
僕は思い切り息を吸い込んだ。そして、一番呼びたかった名前を叫ぶ。
「おかえり! 泉美!」
世界はやっぱり、色彩にあふれている。その中で僕は、ようやく本当の色を見つけた。
(了)
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