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黒猫ノワール|短編小説

【作品紹介】
一年前、僕と妻のもとにやってきた黒猫、名前はノワール。フランス語で「黒」を意味する。ある夜、妻がコンビニに買い物に行った後、僕の膝の上で丸くなっていたノワールが、突然「グルゥ…」と唸り声を上げ、玄関へと一直線に走り出した。僕は驚いてノワールの後を追うが、ノワールの姿は煙のように消えていた…。

 窓の外では、朝から降り続く雨がアスファルトを濡らし、世界を灰色に染め上げていた。雨粒が窓ガラスを叩く不規則なリズムだけが、静寂に包まれたリビングのBGMだった。
 僕は愛用の革張りのソファに身を沈め、読みかけのハードカバーを開いていたが、活字を目で追うだけで、内容は一向に頭に入ってこない。意識の半分は、隣室から微かに漏れ聞こえてくる、ある「音」に向けられていたからだ。
 ――フンフン、フフン……。
 壁一枚隔てた向こう側、妻の優子の書斎から、柔らかな鼻歌が聞こえてくる。僕はページをめくる手を止め、息を潜めてその旋律に耳を傾けた。ここで僕が聞き耳を立てていると知れば、彼女は途端に恥ずかしがり、その愛らしい唇を閉ざしてしまうだろう。だから僕は気配を消し、あくまで読書に没頭する夫を演じ続けなければならない。

 インテリアデザイナーを生業とする優子は、感情が音になって溢れ出るタイプだ。機嫌が良い時、仕事が波に乗っている時、あるいは新しいインスピレーションが閃いた時、彼女は無意識のうちにメロディを口ずさむ。
 そのレパートリーは実に多彩で、混沌としている。ある時は街中で流れている最新J-POP、ある時は僕が知らない昭和のフォークソング。その他にも、再放送ドラマの主題歌や洗剤のCMで流れる一瞬のジングルまで、彼女の頭の中にあるジュークボックスは、時代もジャンルも超越してランダムに再生されるらしい。だが、どんなセットリストであっても、彼女は必ずどこかでスタンダード・ジャズの名曲「Fly Me to the Moon」を挟み込む。まるでそれが、彼女の精神をチューニングするための、基準の音であるかのように。
 以前、夕食の席でそのことを指摘したことがある。「君の鼻歌メドレーには、必ずFly Me to the Moonが入るね」と。優子はきょとんとして首をかしげ、「そう? 偶然じゃない?」と不思議そうに笑った。どうやら本当に無意識らしい。

 優子の鼻歌を聞くのは、随分と久しぶりだった。ここ数週間、彼女は深くて暗いスランプの森を彷徨っていた。リビングに散乱した描き損じのラフスケッチの山が、彼女の苦悩を物語っていた。
「あー、全然ダメ。何を描いても、どこかで見たことのあるデザインなのよね。私のデザインって、結局誰かの真似なのかな……」
 深夜、マグカップを両手で包み込みながら、優子は何度もうなだれていた。「このままだと、今回のクライアントとの契約、切られちゃうかも」と頭を抱え、長い髪をかきむしる姿を見るのは、本当に辛かった。その時期、書斎から聞こえてくるのは鼻歌ではなく、重苦しい溜息と、「あーもう!」という、行き場のないストレスを含んだ悲痛な叫び声だけだった。

 食品メーカーの経理部に勤める僕は、デザインというクリエイティブな領域とは無縁の場所にいる。数字の整合性を合わせ、確実な答えを導き出すのが僕の仕事だ。対して優子の仕事には、絶対的な正解がない。ゼロからイチを生み出す産みの苦しみを、僕は想像することしかできず、真の意味で共有してあげることはできない。背中をさすり、温かい紅茶を入れることくらいしかできない自分が、ひどく無力で歯がゆかった。
 結婚する前、共通の友人にボヤいたことがある。「僕と優子は趣味も仕事も思考回路も全然違うけど、大丈夫かな」と。友人はビールジョッキを傾けながら、「共通する部分がありすぎると、逆に反発して喧嘩になるよ。ウチみたいにさ」と笑い飛ばした。その言葉に妙に納得し、救われたことを覚えている。違うからこそ、補い合える。そう信じて、僕たちは夫婦になったのだ。
 だからこそ、今日の鼻歌は僕にとって、まさに福音ふくいんだった。雨音に混じって聞こえる「Fly Me to the Moon」は、軽やかで、少し弾んでいる。きっと、長く暗いトンネルの先に、一筋の光が見えたのだろう。
 僕は安堵の息を漏らし、ようやく本の内容に集中しようと姿勢を直した。

 その時、ふわりと温かい重みが膝の上に乗ってきた。黒猫のノワールだ。
「なんだ、お前も締め出されたのか?」
 僕が苦笑して話しかけると、ノワールは金色の瞳を細め、短く「ニャッ」と鳴いた。優子が仕事モードに入ると、書斎のドアは固く閉ざされる。構ってもらえなくなったノワールは、仕方なく「代用品」である僕のところへやってきたというわけだ。
「仕事に集中させてあげような。僕の膝の上で我慢しとけ」
 そう言い聞かせ、背中を撫でてやると、ノワールは不満げに尻尾を一度振ってから、大きな欠伸をして丸くなった。僕の膝を通して伝わってくる体温と、喉を鳴らすゴロゴロという振動が、雨の日の憂鬱を溶かしていくようだった。

 一年前の嵐の夜、ずぶ濡れで震えていた子猫を拾ってきたのは優子だった。彼女はタオルで子猫の体を拭きながら、「名前、どうしようか」と言った。飼うか飼わないかの選択肢を通り越して、もう名前のことを考えている彼女に、僕は面食らってしまった。
「そうだなぁ、黒猫だから、クロってどう?」
 僕の提案に、優子は眉をひそめた。
「クロって、なんか刑事ドラマの犯人みたいで嫌。もっとこう、気品がある名前がいい」
「気品か……」
「そうだ! ノワールにしましょう! フランス語で『黒』って意味だから!」
 優子は瞳を輝かせて宣言した。僕は心の中で「結局、意味は一緒じゃないか」と盛大なツッコミを入れたが、彼女の嬉しそうな顔を見て、「いいんじゃない? お洒落で」と同意した。それが、ノワールが家族になった日だ。
 ノワールは優子に懐いた。僕のことは「餌をくれる同居人」程度にしか思っていない節があるが、優子のことだけは特別な存在として認識しているようだった。優子が泣いていると必ずそばに寄り添い、彼女が笑うと一緒に喉を鳴らす。二人の間には、言葉を超えた絆があるように見えた。

 書斎のドアが開き、優子がリビングに出てきた。伸びをしながらこちらへ歩いてくる彼女の顔は、ここ数週間の苦悶に満ちた表情からは想像できないくらい、晴れやかだった。
「一段落ついた?」
「うん、何とかね。神様が降りてきてくれたみたい」
 そう言って彼女はソファの背もたれに寄りかかった。
「あら、ノワールったら。パパの膝で寝てるの? 珍しい」
「優子に相手にされないから、仕方なくだよ」
「ふふ、ごめんね。でも、おかげですごくいいアイディアが固まったの。今回のプレゼン、いける気がする」
 優子の声は弾んでいた。その明るさが、部屋の空気まで変えていく。
 彼女は玄関の方へ歩き出し、コートを羽織り始めた。マフラーを首に巻きながら、こちらを振り返る。
「ちょっと気分転換にコンビニ行ってくるけど、何か買うものある?」
「寒いし、雨降ってるのにわざわざ?」
 雨は小降りになっていた。気分の高揚を、冷たい外気で落ち着かせたいのだろう。
「うん。なんか甘いものが食べたくて。脳みそが糖分を欲してるの」
「じゃあ、アイス食べたい」
「もう、そんなこと言うと、私もつられてアイス買っちゃうでしょ?」
「よし、僕はバニラで」
「またバニラ? 飽きないわねぇ」
 優子は悪戯っぽく微笑み、ノワールに向かって「行ってくるね、お留守番頼んだよ」と手を振った。僕は丸まっているノワールの前足を取り、肉球をぷにぷにと押しながら、一緒に手を振る。
「行ってらっしゃーい! 気をつけてな」
「すぐ戻るから」
 ドアが閉まる音が響き、鍵をかける金属音がカチャリと鳴った。再び、部屋は雨音だけの静寂に包まれた。
 ――優子が戻ってきたら、コーヒーを入れよう。
 そんなことを考えながら、僕は再び本に視線を落とした。
 異変が起きたのは、それから五分も経たない頃だった。膝の上で眠っていたノワールが、弾かれたように突然立ち上がったのだ。
「ん? ノワール、どうした?」
 その様子は尋常ではなかった。全身の毛という毛が逆立ち、針山のようになっている。耳は後ろに伏せられ、瞳孔は限界まで開いていた。視線は虚空の一点、玄関の方に釘付けになっている。
「おい、大丈夫か?」
 落ち着かせようと背中に手を伸ばした瞬間、ノワールは僕の手を避けるように身をよじった。
「グルゥ……」
 聞いたこともないような、腹の底から響く低い唸り声。それは威嚇というよりも、切迫した警告のように聞こえた。
 次の瞬間、ノワールは僕の膝を力強く蹴り上げた。鋭い爪がジーンズの生地に食い込み、微かな痛みが走る。
「うわっ!」
 驚く間もなく、ノワールは黒い弾丸となってリビングを駆け抜け、玄関目がけて一直線に走る。そのスピードは、普段見ているノワールの姿とは比較にならないほど速かった。
「おい! 待て!」
 僕は本を放り出し、慌てて後を追った。リビングから廊下に出ると、そこにはもう、ノワールの姿はない。玄関のドアは閉まっている。鍵もかかったままだ。靴箱の下、傘立ての裏、廊下の突き当たり。どこにも見当たらない。
「ノワール? どこ行ったんだ?」
 家の中は密閉されている。窓も全て閉め切っているはずだ。逃げ場などない。僕は寝室、洗面所、浴室、そして優子の書斎と、全ての部屋を回った。
「おーい! 出てこいよー! おやつあげるから!」
 ベッドの下を覗き込み、クローゼットを開け放ち、洗濯機の中まで確認した。だが、ノワールは文字通り煙のように消え失せていた。
 リビングに戻り、ソファの下を確認したが、やはりいない。
 背筋に冷たいものが走った。物理的にあり得ない。この家はマンションの五階だ。玄関も窓も施錠されている状況で、猫一匹が忽然と姿を消すなど、あり得るはずがない。しかし、現実にノワールはいない。先ほどまでの温かい重みと、爪を立てられた膝の鈍い痛みだけが残っている。
 リビングの中央で立ち尽くしていると、サイドテーブルの上に置いてあったスマートフォンが、不快な振動音を立てて震え出した。画面には見知らぬ固定電話の番号が表示されている。嫌な予感が心臓を鷲掴みにした。ノワールの異常な行動と、この電話。不吉なパズルのピースが、勝手に組み合わさっていく。
 震える指で、通話ボタンをスワイプした。
「……はい」
『もしもし? こちらは西川島警察署の者ですが、谷村優子さんのご家族の方でしょうか?』
 男の声だった。事務的だが、どこか気遣うような響きを含んでいた。
「はい、夫ですが……」
『落ち着いて聞いてください。先ほど、奥様が交通事故に遭われました』
 言葉が出なかった。雨音も、冷蔵庫のモーター音も、自分の呼吸音さえも、あらゆる音が、遠い彼方へ飛び去っていったような気がした。
『現在、中央病院に搬送されています』
「すぐに行きます!」
 我に返り、住所を聞き取る。電話を切ると、僕は財布と上着を掴んで家を飛び出した。ノワールのことなど、もう頭の片隅にもなかった。
 優子。優子。優子……。
 頭の中で、愛する妻の名前を呪文のように繰り返しながら、エレベーターのボタンを連打した。

 大通りでタクシーを拾い、行き先を告げる。運転手は僕の剣幕に気圧けおされたのか、何も言わずにアクセルを踏み込んだ。
 ワイパーが激しく動き、フロントガラスを叩く雨を拭い去っていく。流れる街の景色は、灰色に歪んでいた。
 ――なんで……どうして……。
 コンビニなんて、行かせるんじゃなかった。アイスなんて、頼まなければよかった。僕が代わりに行けばよかった。
 後悔という名の毒が、全身に回っていく。
『やっとスランプを脱出したの』と笑った彼女の顔がフラッシュバックする。『すぐ戻るから』と言った声が、耳にこびりついて離れない。
 嫌な想像ばかりが膨らむ。大怪我をしているんじゃないか。意識がないんじゃないか。もし、彼女が二度とデザインを描けない体になっていたら……。僕は膝の上で拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込み、血が滲みそうになるほど強く。
「お客さん、大丈夫ですか?」
 バックミラー越しに運転手が声をかけてきたが、答える余裕はなかった。赤信号で車が止まるたびに、舌打ちをしそうになるのを必死で堪える。時間が泥のように重く、遅い。

 病院のロータリーにタクシーが滑り込むと同時に、僕は運転手に一万円札を放り投げ、「お釣りはいりません!」と叫んで外に飛び出した。雨の中を走り、自動ドアを抜け、受付に駆け寄る。
「さっき運ばれた、事故の……優子は!」
 看護師が怪訝な顔をすると同時に、奥から警察官らしき制服姿の男が近づいてきた。
「ご主人ですね? こちらです」
 促されるまま、救急外来の処置室へと続く廊下を走る。
 心臓が早鐘を打っていた。どんな姿で彼女がそこにいるのか、見るのが怖かった。包帯だらけかもしれない。たくさんの管に繋がれているかもしれない。
 覚悟を決め、勢いよくカーテンを開け放つ。
「優子!」
 僕の悲鳴に近い呼びかけに、パイプ椅子に座っていた人物がビクリと肩を震わせ、振り返った。
「……え? あなた?」
 そこにいたのは、優子だった。
 包帯も巻いていない。点滴もしていない。ただ、少し顔が青白く、髪が乱れているだけだ。
 僕は肩で息をしながら、「はぁ?」と間抜けな声を漏らした。傍らに立っていた白衣の医師が気まずそうに、眼鏡の位置を直しながら言った。
「あの……検査の結果、かすり傷と打撲だけでして。命に別条はありません」
「え……でも、交通事故って……」
 混乱して言葉に詰まっていると、警察官が手帳を見ながら説明を加えた。
「大型トラックが信号無視をして交差点に突っ込みましてね。目撃者の話では、『女性が正面から轢かれた』とのことだったんですが……奇跡的と言いますか、何と言うか……」
 全員が狐につままれたような顔をしていた。おそらく、ここにいる全員が、今の状況を理解できていない。もちろん、当事者である優子も含めて。
 僕はよろめくように優子に近づき、その両肩を掴んだ。確かな温もりがある。生きている。無事だ。安堵で膝から力が抜けそうになるのを必死で堪え、彼女の顔を覗き込む。優子は小刻みに震えていた。
「よかった……本当によかった……」
 涙声になる僕を見て、優子は呆然とした瞳を揺らした。そして、ふと何かに気づいたように周囲を見渡した。
「ねぇ、ノワールは?」
 その言葉に、僕は耳を疑った。
 ――死にかけた直後に、猫の心配か?
 安堵が瞬時に苛立ちへと変わる。「こんな時に猫の話かよ!」と怒鳴りたくなったが、彼女の瞳があまりにも真剣で、そして怯えていたため、僕は言葉を飲み込んだ。
「ノワールはどこ? 一緒に来てないの?」
 優子は僕の腕にすがり付くようにして聞いてきた。その指先は氷のように冷たい。
「どこって……家にいるよ。当たり前だろ?」
「本当に? 本当に家にいるの?」
「ああ、出る時に探す余裕はなかったけど、家にいるはずだよ?」
 僕が努めて冷静に言うと、優子は「そう……」と呟き、声を潜めた。
「実はね……ノワールが助けてくれたの」
「え?」
 意味が分からずに聞き返すと、優子は震える声で続けた。
「青信号で横断歩道を渡っていたら、右からすごい音がして、見たら大きなトラックが、もう目の前にいて……」
 彼女は一度言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。恐怖が蘇っているのだ。
「ゆっくりでいいよ。落ち着いて」
「もう駄目だって思った瞬間、視界の端から黒い影が飛び出してきたの。それがトラックの前に立ちはだかって……」
「それが、ノワールだって言うのか?」
「うん。間違いないわ。ライトに照らされた、あの金色の目、ツヤツヤの毛並み……絶対にノワールだった。あの子がトラックに向かって行ったら、トラックが真横に曲がって電柱に激突したの。私は驚いて転んだだけで……」
 優子の説明は、常識的に考えれば荒唐無稽だった。家から数キロ離れた場所に、鍵のかかった部屋から猫が瞬間移動するはずがない。でも、僕の中で点と線がカチリと繋がる音がした。
 あの時、ノワールが見せた異常な反応。
 閉め切った部屋からの消失。
 そして、その直後に起きた事故。
 背筋の寒気が再び蘇る。
「優子、落ち着いて聞いてくれ」
 僕は隣の椅子を引き寄せ、腰を下ろした。優子の手を両手で包み込み、ゆっくりと語りかける。
「実は、家でも変なことがあったんだ」
 ノワールが突然唸り声を上げたこと。僕を蹴って走り出したこと。そして、密室の中から煙のように消えてしまったこと。
 一つ一つ話すたびに、優子の顔から血の気が引いていった。
「やっぱり……。あの子、来てくれたんだ」
 優子は力なく項垂うなだれ、涙をこぼした。
「私の身代わりになったの? そんなの嫌よ……」
 僕は優子を抱き寄せ、強く抱きしめた。彼女の震えが僕の体に伝わってくる。かける言葉が見つからない。
「帰ろう。家に帰って、確かめよう」
 僕に出来ることは、それだけだった。
 警察署での簡単な事情聴取と病院の手続きを終え、僕たちはタクシーで帰路についた。雨はいつの間にか上がっていたが、空はまだ分厚い雲に覆われていた。

 家に着き、玄関の鍵を開ける。カチャリという音が、やけに大きく響いた。
「ただいま」
 優子が恐る恐る声を上げる。いつもなら、「ニャーン」という甘えた声と共に、黒い毛玉が出迎えてくれるはずだ。でも、返ってきたのは沈黙だけだった。
 僕たちは手分けして家の中を探した。クローゼット、ベッドの下、本棚の隙間、キッチンの棚の奥、冷蔵庫の上。考えられる全ての場所を、名前を呼びながら探した。
 一時間後、僕たちはリビングのソファに並んで座っていた。
 ノワールは、どこにもいなかった。優子の匂いが染み付いたクッションの上にも、私の読みかけの本の横にも、その姿はない。
 先ほどまでの出来事が、まるで悪い夢だったかのように感じられた。トラックの暴走も、奇跡的な回避も、全部幻だったんじゃないか。そう思えてくる。でも、優子の服についた泥の汚れと、ノワールが僕の膝を蹴って飛び出した時の、あの痛み。そして何より、僕と優子の間にノワールがいないことが、紛れもない現実であることを証明していた。
「黒猫が前を横切ると不吉なことが起こる、なんて話があるけど、あれは嘘ね」
 沈黙を破り、優子がポツリと言った。その声は枯れていた。
「ああ。不吉どころか、幸福の使者だ。優子の命の恩人……ううん、恩猫おんねこだね」
 優子は「何よ、おんねこって」と泣き笑いのような表情を見せた。その目尻には、まだ涙が光っていた。
 彼女は深呼吸を一つして立ち上がった。
「コーヒー入れるね。美味しいやつ」
「頼むよ」
 優子はキッチンへと向かった。
 僕は天井を仰ぎ、目を閉じた。瞼の裏に、金色の瞳をした生意気な黒猫の姿が浮かぶ。
 しばらくすると、キッチンからお湯が沸く音と共に、微かな鼻歌が聞こえてきた。

  ――Fly me to the moon…
  ――And let me play among the stars…

 それは、いつもの「Fly Me to the Moon」だった。でも、さっきまでの弾むような明るさはない。鎮魂歌のように静かで、切なく、そして、どこまでも優しい響きを持っていた。彼女なりの、ノワールへの感謝と、さよならの儀式なのだろう。
「案外、ひょっこり戻ってくるかもしれないよ? お腹空いたーって」
 僕は努めて明るい声を出して、キッチンの方へ呼びかけた。
 鼻歌が止まる。
「そうね……」
 優子の声が微かに震えていた。
「窓、少し開けておこうかな」
 僕は立ち上がり、カーテンを開けて窓の鍵を外した。雨上がりの湿った風が吹き込んでくる。
 雲の切れ間から、わずかに月が顔を覗かせていた。
 ――優子を守ってくれて、ありがとう。
 月に向かって、僕は心の中で深く頭を下げた。
 キッチンからは再び、優子の歌声が聞こえてくる。僕はその旋律に耳を傾けながら、いつかまた、あの黒い影が「ただいま」とばかりに窓から飛び込んでくる日を、静かに待ち続けようと思う。

(了)


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