絶滅した僕の名前|短編小説
僕の名前は、鈴木明という。
ごくありふれた、どこにでもある名前だ。画数もそれほど悪くないし、読み間違えられることもない。役所の窓口で呼ばれれば「はい」と答え、宅配便の伝票に判を押し、会社の名刺にも刷り込まれている。僕にとって、名前とは自分を特定するための記号に過ぎなかった。
そんな僕の名前に、魔法をかけた人がいた。
彼女の瑞希は僕のことを「アキ」と呼んだ。ただ短くしただけじゃないか、と思うかもしれないが、彼女が呼ぶ「アキ」には、不思議な重みと力があった。
朝、カーテンから漏れる光の中で微睡んでいる時。
「アキ、コーヒー淹れたよ」
夜、仕事で疲れ果てて帰宅し、玄関に座り込んでしまった時。
「おかえり、アキ」
彼女の唇からこぼれるその二音は、僕の魂を包み込む柔らかな毛布のようだった。彼女に呼ばれるたび、僕はただの「鈴木明」ではなく、彼女の世界に必要とされている、たった一人の特別な存在になれた気がした。
「アキ」という呼び名は、彼女と僕の間にだけ存在する、透明な秘密の合言葉だった。
ある日、彼女が言った。
「名前ってね、呼ぶ人がいなくなると、半分死んじゃうんだよ」
「どういうこと?」
「だって、自分で自分のことを名前で呼ぶ人なんていないでしょ? 名前は誰かに手渡して、呼んでもらって初めて命が吹き込まれるものなの。だから、もし世界中の人が私のことを忘れたら、『瑞希』っていう私はこの世から消えちゃうんだよ」
そんな寂しいことを言わないでくれ、と僕は笑った。
「僕が一生呼び続けるから大丈夫だよ」
しかし、その約束は果たせなかった。
別れは、劇的なドラマも怒号も悲鳴もなく、ただ静かに、潮が引くようにやってきた。価値観のズレとか、将来への不安とか、すれ違いとか、ありふれた理由が積み重なって、僕たちの間にある空気が少しずつ冷えていった。
最後に彼女が部屋を出て行く時、彼女は一度だけ振り返って、僕を呼ぼうとした。
「ア……」
言いかけたその言葉は形にならず、彼女は唇を噛んだままドアを閉めた。
それから、僕の世界から「アキ」という名前が消えた。職場では「鈴木さん」と呼ばれ、友人たちからは「スズキ」や「アキラ」と呼ばれる。どれも僕を指していることに違いはないし、聞き慣れた音だ。でも、何かが決定的に違っていた。誰に呼ばれても、僕の心の中にあったはずの小さな灯火は、もうともることはない。
彼女が去ってから、三か月が経った。
僕は一人で、馴染みのない街のカフェにいた。窓の外を眺めながらぼんやりとコーヒーを啜る。ふと、隣の席から「アキ!」という高い声が聞こえた。
心臓が跳ねた。
反射的にそちらを向くと、そこには母親に駆け寄る小さな男の子がいた。母親は笑顔でその子の頭を撫でている。
――ああ、そうか。
「アキ」という名前は、この世界にまだ溢れている。でも、僕を「アキ」と呼んで、僕に命を吹き込んでくれたあの声は、もうどこにもない。
彼女が言った通りだった。僕の中の「アキ」は、あの瞬間に絶滅してしまったのだ。
今、僕の手元には、新しく作り直した名刺がある。
『鈴木 明』
整然と並んだ活字を見つめる。それは冷たく、硬い記号に戻ってしまった。僕はこの記号の鎧をまとって、これからも生きていく。「鈴木さん」と呼ばれれば愛想よく返事をし、書類に署名をし、一人の人間として社会の一部を担っていく。
それでも時折、夜の静寂の中でふと思うことがある。僕の心の奥底、誰にも触れられない深い場所に、化石のように眠っている名前があることを。それは彼女だけが知っていた、彼女だけの魔法で輝いていた、たった二音の僕の真実。
誰も呼ぶことのないその名前を、僕は心の中でそっと呟いてみる。
――アキ。
自分の声で呼んでみても、それはただの音として空気に溶けて消えていく。温もりも、重みもない。
僕はコーヒーを飲み干し、席を立つ。店を出ると、街の喧騒の中でたくさんの名前が飛び交っている。呼び、呼ばれ、誰かの名前が生まれては、どこかでまた一つ、ひっそりと絶滅していく。
僕は「鈴木明」として、駅へと向かう雑踏の中に紛れていった。
(了)
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