宇多田ヒカル氏「Mine or Yours」が全く政治的ではないのでは?の話
最近やたらと問題視されてる宇多田ヒカルの「Mine or Yours」の歌詞。確かにキャッチー過ぎて中々インパクトのある歌詞ではある。
真偽は不明だけど、割と多くのコメントが運営に削除されてるみたい。
去年彼女のライブに行って色んなものを受け取らせてもらった人間から取って見れば、今回の炎上騒ぎはあまりにも残念過ぎる。
本当に彼女は政治的思想を持ってこの曲を作成したのか、考えてみたい。
『Mine or Yours』—掛け違いと選択の物語
この曲は、人間関係における微妙なすれ違いを「掛け違い」というモチーフで描きながら、選択の無情さ、距離感の模索、そして関係の再構築へと進んでいく。その流れを起承転結の構造で整理すると、より深いメッセージが見えてくる。
1. すれ違いの始まり—理想と現実のギャップ
「Oh 昨日の僕は 僕が思う僕とは かけ離れていた」 昨日の自分は、理想とする自分とは程遠かった。
「素直になれず 君を泣かせるやつには 失望している」 ここでの「君を泣かせるやつ」とは、自分自身。意図せず大切な存在を傷つけてしまった自分を俯瞰的に見て、深く失望している。
2. 距離感の微調整と関係の修復
「自分を大事にできるようになるまで なんにも守れない」 自己の尊重がなければ、大切なものを守ることはできない。この「自分」には、自分自身だけでなく、「君」との関係も含まれていると思う。
「なにが食べたい?店探すよ 元気出るまでダラダラしよう」 喧嘩の後の歩み寄り。大げさな謝罪ではなく、日常に戻ることが最善策だと理解している。
「君はコーヒー僕は緑茶、いつもの」 何気ない日常にも、掛け違いが潜んでいる。「君はコーヒー」「僕は緑茶」という選択の違いが、それを象徴している。
3. 選択の無情さと社会的な掛け違い
「どの道を選ぼうと 選ばなかった道を失う寂しさとセット」 選択とは、何かを得ると同時に、何かを失う行為。喪失感と共に生きることを受け入れる必要がある。
「令和何年になったらこの国で 夫婦別姓okay されるんだろう」 これは単なる社会的な問題提起ではなく、「選択と喪失」に関するメタファーの一つ。「夫婦別姓を選ぶ自由」と「選ばなかった選択肢に伴う寂しさ」が、このテーマの延長線上にある。
4. 関係の再構築—「転」の瞬間
「I love making love to you 掛け違えたボタン 一つ一つ外す 恐る恐る」 この表現は単なる関係の修復ではなく、一度すべてを解体し、新しい形を模索することを示している。通常、掛け違えたボタンは掛け直せば済む。しかし、ここでは「恐る恐る一つずつ外している」。慎重さと覚悟を伴う行為であり、今の関係性をそのまま継続するのではなく、根本から向き合おうとしている。
関係性のリセットとは、一方的に終わらせることではなく、深い信頼と理解を築くための手段でもある。むやみに掛け直すのではなく、慎重に見極めながら進むことが、この曲の主人公の選択なのだ。
5. 自由のパラドックス—結論の提示
「自由に慣れれば慣れるほど 不自由だって、どうして誰も 僕らに教えてくれなかったの」 ここで曲は「結」の部分に到達する。自由を選ぶほど、その先にある不自由が付きまとってくる。しかし、裏を返せば、不自由を選ばなかったことで生まれる自由もまた存在する。
自由の中の不自由、不自由の中の自由——これはまるでシュレディンガーの猫のように、観測するまではどちらの状態なのか判別できないもの。だからこそ、誰もその真実を事前に説明できない。それは選び取って初めて気づくものなのだ。
まとめ
『Mine or Yours』は、「掛け違い」を通して、選択の無情さと、その先にある関係性の微調整、再構築、そして自由のパラドックスを描いている。些細な違いが積み重なり、大きなすれ違いへと発展する中で、人はどのように向き合い、どう受け止めるべきなのか——その問いがこの曲全体を通じて投げかけられている。
しかし、関係性は不変ではない。距離感を調整し、心の持ちようを変えれば、すれ違いを乗り越えることもできる。そして選択とは、選ばなかったものの喪失と常にセットである——それを受け入れたとき、初めて「自由」の本質が見えてくるのかもしれない。
今回の炎上については、左翼・右翼ともに「騒ぎすぎ」の一言に尽きると思う。もちろん彼女自身に夫婦別姓に対しての意見が何かしらあるのかも知れない。あってしかるべきと思う。
ただ、先程ツラツラ書いたように彼女はそれをメインとして捉えているわけでは決してない。むしろコーヒーor緑茶、mine or yoursのように1つの対比として用いているに過ぎない。もう少し冷静になって本文を全文読んだ上でMine or Yoursを受け止めて欲しい。
という彼女サイドに立った論評を書いては見たものの、やはりこれで終わらすわけにはいかない。もちろん自分の気持ちは前述の通りではあるが、一方でここ日本においてアーティストが政治的なエッセンスを歌詞に用いるのはリスクがある。
聴衆の分断::政治的メッセージは賛否両論を呼び、ファン層の一部を遠ざけるリスクがある。
商業的影響:放送局やスポンサーが政治的コンテンツを避ける傾向にあるため、メディア露出や収益が減少する可能性。
批判や攻撃の対象:政治的発言はネットやメディアで激しい批判やバッシングを引き起こすことがあり、アーティストの精神的な負担が増す。
ステレオタイプ化:政治的メッセージが強いと、アーティストが「政治的な歌手」と固定化され、音楽の多様性が損なわれる恐れ。
日本では政治的発言に対する社会的反応が敏感で、芸能人が政治的立場を公にすることは比較的少ない傾向がある。そのため、歌手が政治的なエッセンスを歌詞に盛り込む場合、戦略的なバランス感覚が求めれる。今回の場合、戦略的なバランス感覚があったかと言えば割と厳しかったように思う。
政治に対して、もう少し活発に議論ができる素地ができあがってたら、少しは違ったのかも知れない。
