「野口城の戦い」─囲師必闕━
囲師必闕(いしひっけつ)とは、「敵を包囲した際には必ず逃げ道を開けておくことが重要である」という孫子の兵法である。敵を完全に包囲すると「窮鼠猫を噛む」状態となり、「もはやこれまで」「ここを先途と」死を恐れずに反撃してくるから避けたいのである。(一向一揆の鎮圧に手こずるのは、一向宗の信者が死を恐れないで向かってくる(死ねば極楽に行けると思っている)ことである。)
別所長治は、一旦は織田方についたが、羽柴秀吉の「加古川評定」での態度が問題視され、別所長治は、叔父・別所賀相の勧めで、「波多野氏、石山本願寺、毛利氏と呼応して織田信長に敵対すれば勝てる」と判断し、三木城に籠城して羽柴秀吉と戦う決意を固め、東播磨の諸将に同心するよう激を飛ばした。世に言う「三木合戦」の始まりである。
三木城の別所長治に応じた国衆は、
・志方城の櫛橋左京亮
・神吉城の神吉長則
・淡河城の淡河弾正忠
・高砂城の梶原平三兵衛
・野口城の長井四郎左衛門
・端谷城の衣笠豊前守
で、彼等は人質を三木城へ送り、「行動を共にする」と誓った。
羽柴勢を迎え撃つ程の勢力を持たない土豪(地侍)たちは、一族を率いて三木城へ参集し、三木城の籠城軍兵は7500人に達した。
━━三木城は難攻不落の城である。
三木合戦の緒戦「鳥町の戦い」で敗北した羽柴秀吉は、作戦を「東播磨の諸城を一つずつ攻め落とし、三木城を丸裸にし、兵糧の搬入を妨げた上で、じっくりと攻める」と変更。先ず手始めに天正6年(1578年)4月1日、長井四郎左衛門の野口城(兵庫県加古川市野口町野口。城兵380人に教信寺の僧兵と近隣の農民を含めて約600人)を3000人で攻めた。しかし、野口城は「播州一の名城」(『別所長治記』)━━四方が沼田で、寄せ手は足をとられて苦戦したが、
「ここは何としても短期間で攻め落とさなければ士気が下がる」
と、羽柴秀吉自ら馬廻り300余騎を率いて陣頭指揮にあたると、4月3日、「播磨一の名城」野口城は落ちた(『播州御征伐之事』)。
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