『べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜』(第5回)「蔦に唐丸因果の蔓」感想
今回の地口(言葉遊び)は、
・占め子の兎
でした。
物事が上手くいったの意の「しめた」を、兎を「絞める」に掛けたしゃれ。物事が思い通りに上手く運んだ時の言葉。「しめこのうさうさ」とも。
「しめしめ、うはうは」って感じか?
・「鯛の味噌吸に四方の赤。飲めや歌えや、チンドン、チンドン」
昔ならば、「鯛の味噌吸(みそず)に四方(よも)のあか、一ッぱい飮みかけ山」といふ筈だ。
叙
日々に新にしてまた日に新なる、はなしの種を買出されと、硯の海邊の市に立て、持たる筆を天秤となし、めつめったに売りたい話したい。鯛の味噌吸(みそず)に四方山の、はなしに鰭(ひれ)はなかれども、尾に尾をつけて書きつゞれば、新しうこそ腥(なまぐさ)けれ。いでや世上の話本、新背もあれば古背もなり、古きをたづねてあたらしき、譬のふしの鰹節、花に醉ぬる人ならで、櫻の皮を削りはべりぬ。
新場老漁書
蜀山人全集 巻2 - 国立国会図書館デジタルコレクション

「鯛の味噌吸に四方の赤、のみかけ山の鳶烏」などとは、明和・安永期の江戶に於ける通言である。それに「(上略)めつたにうりたいはなしたい、鯛の味噌吸に四方山の、はなしにひれはなけれども、尾に尾をつけて書つゞくれば、新しうこそ腥けれ」と序にいつてゐる。
大田南畝は狂名を「四方赤良」(最初は四方赤人)とした。当時、日本橋で売られている「四方の赤味噌」が評判だった。味噌から糞を連想するのが気に入ったのだろう。
大田南畝の本の書名に『鯛の味噌津』『四方のあか』があるが、ここでの「鯛の味噌吸に四方の赤」は、「江戸神田和泉町の酒屋・四方久兵衛で売っていた赤味噌の鯛のお吸い物や銘酒「滝水」を飲みかけ(山のトンビ、カラス)」という(「飲め」の前につける囃子詞的な)地口らしい。「一杯飲みかけの寒ガラス」のようなものか。

さて、「唐丸の正体は誰か?」という話で、SNSでは「謎の絵師」というキーワードから「写楽ではないか?」と話題になっています。写楽を見つけ出した蔦屋重三郎の本名は喜多川柯理(「からまる」と読んでいますが、当時の読み方は「からまろ」)で、「蔦が絡まる」ことから「蔦屋」と名乗ったそうです。ちなみに、写楽の正式名は「写楽斎」で、これは「しゃらくさい」(江戸では「しゃらくせぇ」で「粋がって生意気な人」)の意、もしくは「粋な人」の意だと思われます。
時代劇のテーマは「義理と人情」だと思っていましたが、『べらぼう』のテーマは「粋」(今風に言えば「いけてるか、いけてないか」)であり、江戸っ子の気風(きっぷ)の良さが売りのドラマのような気がします。
■「我儘」=「自由」
穂積陳重の「法窓夜話」によれば、加藤弘之から聞いたこととして訳字「自由」は幕府外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎が案出したのが最初であるとするが、文献上では文久2年初版・慶応3年正月再版訳了の「英和対訳辞書」(堀達三郎・著)に紹介され、慶応2年初版の「西洋事情」(福沢諭吉・著)にも訳字が見られるとする。鈴木修次によれば初出は森山多吉郎、福沢の西洋事情により広まったとする。慶應義塾のデジタルギャラリによれば福沢による訳語とする。
「自由」は古典中国語では「後漢書」、日本では「続日本紀」まで遡ることができるが我儘放蕩(わがままほうとう)の意味であった。「日本書紀」の綏靖天皇編には、庶兄の手硏耳命について「然其王、立操厝懷、本乖仁義、遂以諒闇之際、威福自由、苞藏禍心、圖害二弟。」の記載がある。
徒然草に「よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし」(60段)とあるほか、二条河原の落書には「自由出家」「自由狼藉」という語句が登場していた。江戸時代の教育論の書である和俗童子訓には「殊に高家の子は、物事豊かに自由なる故に、好む方に心早くうつり易くして、おぼれ易し。」とあった。
福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、原語の意義を尽くさないとする。加藤弘之は慶応4年の「立憲政体略」において「自在」と訳し、津田真道の「泰西国法論」でも「自在」と訳されたが、福沢や中村敬宇によるミルの日本語訳「自由之理」により自由が定着した。穂積によれば「自由」なる語・「自由」なる思想の開祖は「実に福沢先生にあると言うてもよかろうと思われる」とする。
寛延 3年(1750年) 1月 7日 蔦屋重三郎、吉原で誕生。
宝暦13年(1763年) 平賀源内『根南志具佐』刊行。
明和 6年(1769年)11月 平賀源内、『漱石香』の口上を執筆。
明和 9年(1772年) 2月29日 「明和の大火」
明和 9年(1772年)11月16日 「安永」に改元
安永 2年(1773年)閏3月13日 二代目・瀬川菊之丞、病死。享年33。
安永 2年(1773年)10月 5日 豊千代(後の徳川家斉)誕生。
安永 3年(1774年) 1月 平賀源内、『吉原細見』の序文を執筆。
安永 3年(1775年) 3月 徳川賢丸、白河藩主・松平定邦の養子に。
安永 3年(1774年) 7月 蔦屋重三郎、『一目千本』出版。
安永 3年(1774年) 8月 杉田玄白、『解体新書』刊行。
安永 3年(1774年) 9月 8日 徳川治察(徳川賢丸の兄)病死。
安永 4年(1775年) 蔦屋重三郎、耕書堂を設立。
安永 4年(1775年) 礒田湖龍斎『雛形若菜の初模様』刊行開始。
安永10年(1781年) 4月 2日 「天明」に改元
■聖地巡礼───今年は吉原と日本橋だけ?
★べらぼう 江戸たいとう 大河ドラマ館
★日本橋
このドラマの問題は、本編終了後の大河紀行ですね。
吉原と日本橋はいいとして、あと40回以上どうするのか?
今回の大河紀行は、平賀源内関連の秩父の中津川鉱山。
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