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「止まらないバス」 短編小説

「止まらないバス」

 終電を逃した夜、僕はバス停に立っていた。
 本当は、逃したのではない。
 最後の電車が目の前で発車するのを、ただ見送っただけだ。

 帰りたくなかった。
 誰もいない部屋に、一人で戻るのが。
 今日は、母の命日だった。

 三年前のあの日、僕は病室にいなかった。
 時刻表は風に揺れ、最終便の時刻はとうに過ぎている。

 それでも、街の奥からヘッドライトの光が近づいてきた。
 白いバスが、音もなく滑るように停まる。
 行き先表示には、見慣れない文字が浮かんでいた。

 ――《終点なし》

 不思議と怖くはなかった。
 酔いと疲労のまま、僕は吸い込まれるように乗り込んだ。

 車内には、まばらに乗客がいた。
 誰も喋らず、それぞれが窓の外の闇を見つめている。
 座席の照明は柔らかく、運転席には背の高い男の影が見えた。

「ようこそ」
 運転手が振り返ることなく言った。
「この路線は、“止まらないバス”です。
 皆さまが“途中”を抜け出すまで、どうぞごゆっくり」

 発車と同時に、外の景色がゆっくりと流れ始めた。
 見慣れた街並みが、どこか歪んでいく。
 ビルの看板が逆さまに見え、信号機は青のまま固まっていた。
 まるで、時間そのものが狂い始めているようだった。

 隣の席で、年配の女性が小さなため息をついた。
 その膝の上には、古びた写真立て。
 若い母親と幼い男の子が写っている。

「あなたも、まだ降りられないのね」
「……どういう意味ですか」

「ここは、“思い出の途中”なのよ」

 彼女は写真を撫でながら、静かに語った。
「息子に会えなかったの。最後に言いたいことがあったのに」
「どうして会えなかったんですか」
「私が、意地を張ったから」

 女性の目に涙が滲む。
「息子が家を出ていく日、私は背中を向けたまま見送った。
 “勝手にしなさい”って。
 本当は抱きしめたかった。ごめんねって、言いたかった」

 窓の外の景色に、若い男性が荷物を抱えて歩く姿が見えた。
 それは記憶の中の息子だった。

「もう、会えないんですか」
「会えないわ。私はもう……」
 彼女は目を閉じ、微かに微笑んだ。
「だから、このバスに乗り続けるしかないの。赦されるまで」

 次の停留所がアナウンスされた。
「次は、“後悔”です」

 運転手の声は淡々としていた。
 バスが止まる。だが、ドアは開かない。

 前方の席で、青年が立ち上がった。
「降ろしてください! もうこれ以上は……!」
 ドアは開かない。

 青年が窓に手を押し当てると、
 ガラスに映像が浮かび上がった。

 幼い少年が、父親の背中を見つめて泣いている。
 父親は一度も振り返らず、雨の中を去っていく。

「父さん……」
 青年の声が震えた。
「俺が悪かったんだ。もっとちゃんとしてれば……」
 彼は窓に額を押し当て、肩を震わせた。
「でも、もう会えない。謝ることも、できない」

 その姿を見て、僕の胸が締めつけられた。

 バスは再び動き出した。
 車内に重たい空気が流れる。

 僕は自分の席を見下ろした。
 そこに、小さなボタンがある。

 赤ではなく、淡い白い光を放っていた。
 ボタンには、小さな文字が刻まれている。

 ――「赦す」

 僕は手を伸ばしかけて、ためらった。
 もし押したら、このバスから降りられるのだろうか。
 でも、誰を? 何を?

「押せないのね」
 隣の女性が言った。
「私も、何度も手を伸ばしたわ。でも、押せなかった」

「なぜですか」
「赦すことが、怖いの」
 女性は静かに微笑んだ。
「赦してしまったら、もう会えなくなる気がして。
 この痛みも、全部消えてしまう気がして」

 僕は息を呑んだ。
 ――そうだ。僕も同じだ。

 胸の奥に、記憶がよみがえった。

 大学受験の前日。
 母は病室で、酸素マスクをつけていた。

『明日、頑張ってね』
 そう言って、弱々しく笑った。
『合格したら、一緒にお祝いしましょう』

 僕は頷いた。でも、そのまま帰った。
 翌朝、試験会場に向かう途中で病院から電話があった。

『すぐに来てください』

 けれど、僕は試験を優先した。
『後で行きます』
 そう言って、電話を切った。

 試験が終わって病院に着いたとき、母はもういなかった。

 あのとき、最後に言いたかったことは何だったんだろう。
 「ありがとう」だったのか、「ごめんね」だったのか。
 僕は、それを聞くことも言うこともできなかった。

 三年間、その後悔を抱えたまま生きてきた。

「でもね」
 隣の女性が続けた。
「本当に赦さなきゃいけないのは、相手じゃないのよ」
「……どういう意味ですか」
「自分自身よ」

 その言葉が、胸に深く突き刺さった。
 僕が赦せないのは、母じゃない。
 あの日、逃げた自分。
 完璧な息子でいられなかった自分。

 そのとき、不意に、どこからか微かな声がした気がした。

 ――「行ってらっしゃい」

 あの日、試験に向かう僕の背中を押してくれた、母の声。
 涙で滲んだ視界の中で、ボタンが静かに光っていた。

「ごめん、母さん」
 僕は呟いた。
「俺、ちゃんと生きるから。もう、後悔に囚われないで生きるから」

 指先が、ボタンを押した。

 カチリ。
 乾いた音とともに、車内の光が一瞬だけ揺れた。

 気づけば、バスは停まっていた。
 窓の外には、朝焼けの光。

 運転手がこちらを見て、静かに言った。
「お疲れさまでした。あなたの停留所です」

 ドアが静かに開く。

 降りた足元に、白い小さな切符が落ちていた。
 拾い上げると、そこにはこう印字されていた。

 ――《赦しました》

 振り返ると、バスはもう走り去っていた。
 窓ガラスに、隣の女性の静かな横顔が見えた気がした。
 彼女は膝の上の写真立てを、そっと抱きしめていた。

 そして――遠くで、母の声が聞こえた気がした。

 ――「よく頑張ったね」

 風の中に、その声が溶けていく。

 僕はゆっくりと歩き出した。
 空が、青く染まり始めている。
 心のどこかで、ようやく“途中”を抜け出せた気がした。

 母の記憶は消えない。
 後悔も、完全には消えない。
 でも、もう囚われない。

「ありがとう、母さん」

 朝日に向かって、僕は歩き続けた。
 新しい一日が、始まろうとしていた。

(完)

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