眠れない夜は、音だけがはっきりする | #シロクマ文芸部
冷蔵庫の低いうなり。洗面所の蛇口が、きちんと閉めたはずなのに、ときどき思い出したみたいに鳴らす小さな音。通りを走る車は見えないのに、タイヤが道を撫でていく気配だけが、窓の外を通り過ぎていく。
私はベッドの上で目を開けたまま、何度も寝返りを打っていた。
疲れていないわけじゃない。むしろ今日は、朝からずっと誰かの言葉に合わせて、ちょうどいい顔をし続けていたぶん、身体の奥は鈍く重かった。なのに眠れない。眠れないくせに、何を考えているのかは、うまく掴めない。ただ、喉の奥に小さな棘が刺さっているみたいだった。
スマートフォンを取って、また置く。画面をつけても、見たいものはない。誰かから連絡が来ているわけでもないし、自分から送りたい相手がいるわけでもない。
カーテンの隙間から、駅の明かりが細く差し込んでいた。
終電は、とっくにない時間のはずだった。
私は起き上がって、窓辺まで歩いた。床が少し冷たい。ガラスに指先を触れたとき、その冷たさだけがやけに正確だった。
その先のことは、たぶん、順番通りには起きていない。
ベランダに出た覚えはない。鍵を開けた記憶もない。けれど、次に気づいたとき、私は見たことのない電車の窓際に座っていた。
膝の上は空いていて、さっきまで握っていたはずのスマートフォンも、部屋着のままだったはずの自分の格好も、どこか曖昧だった。車内は明るすぎず暗すぎず、乳白色の灯りに満たされている。走っている音はするのに、揺れはほとんど身体に伝わってこない。
隣には、同じくらいの年頃の女の人が座っていた。
暗い色のコートを着て、肩につくくらいの髪を下ろしている。横顔は見えているのに、目元より下だけがどうにも印象に残らない。口元を見ようとすると、窓の外の暗さのほうに意識がずれてしまう。
彼女は窓の外を見たまま、静かに言った。
「眠れないの」
私は少し遅れて頷いた。
「……うん」
頷いてから、自分がまだ何も説明していないことに気づいた。でも不自然には思わなかった。彼女の声は、車輪の音より近くて、耳のすぐそばで静かにほどけるようだった。
「こういう夜、あるよね」
「ある」
「静かな日のほうが、音だけ近くなる」
私は膝の上で、指先を軽く組み直した。
「今日は、そんな感じだったかも」
彼女は問い返さなかった。ただ、続きを急かさない顔で待っているようだった。
「給湯室でも、エレベーターでも、誰かが紙袋を持つ音でも、なんか全部ちょっと近くて」
「うん」
「うるさいってほどじゃないのに、ずっと耳の端に残る」
彼女は小さく頷いた。
「ちゃんと静かなのに、休める感じがしない夜」
その言い方は、私が言いかけた輪郭を、少しだけ先に整えるみたいだった。説明しなくて済むのが、楽だった。
しばらくして、電車がゆるやかに減速した。
駅名表示はない。ホームはあるのに、人の気配がまったくない。扉が開く。
彼女が先に立ち上がる。
「降りようか」
私は何も聞かずに、それについていった。
床に自分の足音は落ちた。けれど、隣を歩いているはずの彼女の足音は、最後まで一度も重ならなかった。
最初の場所は、教室だった。
夜のはずなのに、窓の外だけが白く曇った朝みたいだった。黒板には何も書かれていないのに、粉っぽい匂いがまだ残っている。机と椅子の並びは、見覚えがあるのに、ひとつだけ列がずれていた。ほんの少しなのに、そのせいで、自分の席がどこだったのか急にわからなくなる。
私は一番前でも後ろでもない、曖昧な位置に立った。椅子の背に触れる。木の表面が、思ったより冷たい。
教室の前方を見たまま、彼女が言う。
「ここで、言わなかった」
私は眉をひそめた。
「……何を」
「違う、ってこと」
「別に、そんなはっきりしたことじゃなかった」
「はっきりしてなかったから、引っ込めた」
私は椅子の背を握り直した。
「言っても変わらなかったし」
「うん」
「子どもだったし」
「うん。それもある」
彼女の返事は短い。でも、切らない。私が逃げ込めるような余白を残したまま、言葉だけ先に行く。
「でも、一回、手は上がった」
私はそこで、息を止めた。
覚えていたわけじゃない。なのに、その瞬間だけ、身体のほうが先に思い出した。手を挙げかけて、やめたことがある。先生に当てられたわけでも、誰かに止められたわけでもない。ただ、言っても仕方ないと思って、自分で指先を膝の上に戻した。
私は黒板を見た。何も書かれていないはずなのに、白い粉だけが薄く浮いているように見えた。
「……言う前に、もういいやってなっただけ」
「もういいや、の前に、先に自分が悪いほうに寄った」
「それは」
言い返しかけて、やめた。
違う、と言い切るには、その感触を私は知りすぎていた。誰かに責められる前に、自分の中で先に自分を小さくする癖。それを説明できたことはないのに、たしかにやってきた。
彼女は私のほうを見なかった。ただ、教卓のほうに視線を向けたまま言う。
「言わないほうが早いって、最初に覚えると長いよね」
黒板のあたりで、爪の先が何かをかいたみたいな音がした。振り向いても誰もいない。窓は閉まっているのに、粉の匂いだけが少し濃くなる。
私はもう否定しなかった。
納得したわけじゃない。ただ、反駁するたびに薄い膜みたいなものを自分に重ねている気がして、急にそれが面倒になった。
電車に戻るまで、彼女はそれ以上、教室のことを語らなかった。私も何も言わなかった。
二つ目の場所は、家だった。
昔の家に似ている。玄関の灯りがついたままになっていて、誰もいないのに、いまから誰かが帰ってきてもおかしくない空気がある。床板は少し冷たい。廊下には、洗剤と夕飯の残り香みたいな匂いが、薄く混ざっていた。
リビングのテーブルに手を置く。表面が妙に滑らかで、毎日使われていた木のざらつきが消えている。ソファも時計も、位置は合っているのに、全部が正しすぎて落ち着かない。
彼女は部屋の中央には立たず、壁際に寄ったまま言った。
「ここでは、先に笑った人の話で終わる」
私はテーブルから手を離した。
「そんな決まり、ないよ」
「口には出ない」
「だったら決まりじゃない」
「でも、そうだった」
私は少し強めに息を吐いた。
「普通にしてただけ」
「うん」
「変にしないほうが楽だから」
「うん」
彼女の声は、ここでも穏やかだった。でも、教室のときより少しだけ具体的だった。私の曖昧な言い方を、曖昧なまま終わらせない。
「誰かが機嫌悪いままだと、長くなる」
「……そう」
「先に大丈夫って言った人の顔で、その場が決まる」
「……」
私はソファの端に腰を下ろしかけて、やめた。クッションが沈む気配がない。座ればたぶん座れるのに、その前から、もう誰かが長く座っていた場所みたいな窪みだけが見える。
「静かな人が、空気を吸う役だった」
「そんな言い方」
「違う?」
「……違わないけど」
彼女はそこで、初めて少しだけこちらを向いた気がした。
「嫌だったね」
「別に」
「うん。ここでも、別に、って言う」
「だって、そうしないと長くなる」
「長くなるのが嫌だった」
「嫌だった」
その返事は、私が言ったつもりだった。
けれど次の瞬間、彼女がほとんど重なるように繰り返した。
「嫌だった」
私は顔を上げた。
いまのは、まだ自分の喉の奥にあったはずだった。そう思ったのに、彼女は少しもおかしな顔をしない。窓ガラスを見ても、夜の闇しか映らない。自分たちの姿だけが、どこにもはっきり残らなかった。
彼女は、そのまま静かに言葉を継いだ。
「違ったんじゃなくて、あのときは、それしかできなかっただけ」
私はその言葉を知っている気がした。でも誰に言われたのかは思い出せない。もしかしたら、一度も聞いたことがなくて、ずっと欲しかっただけかもしれなかった。
私は何も返さなかった。
説得されたのではない。ただ、ここまで来ると、否定すること自体がもう自分を守っていない気がした。
電車に戻るころには、肩が少し重かった。重いのに、どこか力は抜けかけていた。
三つ目の場所は、駅だった。
夜のホーム。白線。ベンチ。自動販売機。全部ちゃんと駅なのに、時刻表だけが同じ時間を指したまま動いていない。アナウンスが流れる。少し遅れて、同じ文がもう一度流れる。風はないはずなのに、私のスカートの裾だけがときどき触れられたみたいに揺れた。
線路は暗い。けれど、ときどき向こう側から金属の震えだけが届く。電車が来る気配はしない。
彼女は白線の手前で立ち止まり、言った。
「ここが、いちばん新しい」
私はベンチの背に手を置いた。金属が冷たい。そこで初めて、自分の手が思ったより強くこわばっていたことに気づいた。
この場所だけ、ほかの二つより少し生々しかった。古い傷をなぞる感じではなく、まだ乾いていないところに触れてしまう感じがある。
「まだ終わってないことって、困るよね」
彼女の声はここで少しだけ低くなった気がした。私は線路のほうを見たまま答える。
「……困る」
「終わってないのに、終わったみたいにしていないといけない」
「ある」
「明日も、何もなかったみたいにする」
「しないと、ややこしくなるから」
彼女はすぐには返さなかった。その沈黙のせいで、自分の声だけが少し浮いて聞こえた。
私は持っていないはずのスマートフォンを、まだ指の感覚では握っていた。送っていない返信。閉じたままのトーク画面。明日になったら、また普通に会わなければいけない相手。まだ何も終わっていないのに、自分だけが先に整った顔を作らなければいけない感じ。
「相手はたぶん、そんなに気にしてないし」
「うん」
「私だけが引っかかってるなら、言うほどのことじゃないし」
「うん」
「上手く流せるなら、そのほうがいいから」
そこまで言って、息が少し詰まった。
彼女は初めて、はっきりと私のほうを見た気がした。見ているはずなのに、やっぱり口元だけがよくわからない。
「上手だよね」
私は視線を逸らした。
「そんなこと」
「大丈夫なふり」
「……」
彼女は責める調子ではなく、ただ確かめるみたいに続けた。
「ずっと、上手だった」
「上手だから、こうなってるんだよ」
言った瞬間、指先に入っていた力が、ふいに抜けた。
ずっとベンチの背を掴んでいた手が、わずかに開く。爪が金属をひっかいていたのだと、そのとき初めて気づいた。肩が、すとんと落ちる。喉の奥に貼りついていたものが、少しだけ剥がれる。息を吸うより先に、長く吐いていた。
ホームのアナウンスが、急に耳のすぐそばで鳴ったみたいに近くなる。制服の袖に残った洗剤の匂いのようなものが、ふいに鼻をかすめた。視界の端で照明が揺れ、白線の輪郭が少しだけ滲む。
私はベンチに背中を預けた。
その動作をしたのは、たぶん今夜が初めてだった。いつもなら、立ったまま、あるいは座ってもどこかを緊張させたまま、身体の一部を浮かせていたはずだった。
私は自分の呼吸が、さっきより深くなっているのに気づいた。
「……そうやって、上手くやるしかなかった」
私が言うと、彼女は少しだけ間を置いて頷いた。
「うん」
それだけだった。
正しいことも、優しいことも、何も足されなかった。慰められたわけでもない。許されたわけでもない。ただ、その言葉が押し返されなかったことだけが、身体の奥に残った。
私は何も言わなかった。
彼女も、もう何も足さなかった。
ホームに、同じ文のアナウンスがまた流れる。遠くで金属が鳴る。風はない。なのに、頬のあたりだけが少し冷える。
どれくらいそうしていたのかわからない。
やがて、彼女が言った。
「ここでいいよ」
私は顔を上げた。
ホームの端に、さっきまでなかったはずの階段が見える。薄い光が、上から差していた。
「帰れるから」
「……どこに」
「あなたの部屋」
当たり前みたいに、彼女は言った。
私は階段のほうを見て、それから隣を見た。
そのとき、初めて、自分から言葉を伸ばした。
「あなたは?」
彼女は答えなかった。
答えなかったというより、そこにあった輪郭が、私が目を逸らしたほんの一瞬のあいだに、続かなくなっていた。コートの色も、肩の線も、そこに座っていた気配も、全部まとめて夜の薄い光に溶けていく。
私はもう一度だけ、同じ場所を見た。
誰もいなかった。
怖い、と思うべきなのかもしれないと、そのとき一瞬だけ考えた。けれど実際に来たのは、怖さより先に、静かな空白だった。そこにあったはずのもののぶんだけ、空気が薄くなる感じ。
私は階段を上った。
一段ずつ、足の裏に重さが戻ってくる。電車の音が遠ざかる。アナウンスが切れる。白い光が近づく。
気がつくと、私は自分の部屋に立っていた。
カーテンの隙間から、夜明け前の薄い色が差し込んでいる。ベッドの端に座ると、シーツの皺が現実の手触りで指に引っかかった。枕元には、充電の切れかけたスマートフォンが置かれている。
画面をつける。午前四時過ぎだった。
思ったより、時間は進んでいない。
眠気は、まだ来ない。胸の奥のつかえも、全部なくなったわけじゃない。
でも私はスマートフォンを手に取ったまま、しばらく画面を見て、それから何も開かずに伏せて置いた。
いつもなら、明るくなるまで意味のない画面を指で追っていたはずだった。
部屋は相変わらず静かで、音だけがはっきりしている。冷蔵庫のうなり。外を通る始発前の車。どこかで小さく鳴いた鳥の声。
私はベッドに横になって、目を閉じた。
眠れないままでも、さっきまでの夜とは、少しだけ違っていた。
