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言葉より速い春 | #せりふ三題噺

三月の風は、まだ少し冷たい。

前日の夜、彼はメッセージを送った。
「俺さ、県外の大学、受かった。けっこう遠いとこ」
たったそれだけの文だった。
絵文字も、冗談だとわかるような言葉もない。

画面を見つめたまま、彼女は何度も文字を打っては消した。
『おめでとう』と送るだけでいいはずなのに、指が震えた。

本当は、別の言葉が喉の奥に引っかかっていた。
ずるいね。
そんなふうに突然、置いていくなんて。

けれど、その四文字は結局、送れなかった。

翌日の放課後。
屋上の鉄扉が、ぎい、と軋んだ音を立てる。

雲が速い。空が高い。
春一番だ、と誰かが廊下で言っていたのを思い出す。

風は容赦なく吹き抜け、制服の裾を後ろへ引っ張る。
昨日までの雨で、床はまだ少し湿っている。
彼女のローファーは、踏み出すたびに、きゅ、と頼りない音を立てた。

彼は先に来ていた。
フェンスにもたれ、
風に前髪を揺らしながら、
いつもと変わらない顔で立っている。

「呼び出すなんて珍しいな」
軽い調子。その声が、余計に胸を締めつける。

彼女は一度、大きく息を吸った。
何度も練習した言葉を、頭の中で並べ直す。

言わなきゃ。今日しかない。

風が強くなる。
スカートがばさりと音を立てる。
彼女は拳をぎゅっと握った。

『あ、あのね……わ、わたし……』
声が裏返る。喉がひりつく。

彼は少し首を傾げた。

「うん?」
その一音で、心臓が跳ねる。

『ず……す……』
言いかけた瞬間、舌を噛んだ。

鋭い痛みが走り、思わず口を押さえる。
目にじわりと涙が浮かぶ。
情けない。
どうしていつもこうなんだろう。

言葉は、喉の奥でぐちゃぐちゃに絡まったまま、出てこない。

そのとき、突風が吹いた。
春一番は、遠慮なく二人の間を切り裂く。

髪が視界を覆い、ローファーの底が湿った床を滑る。
バランスを崩した彼女は、反射的に前へ踏み出した。

つるり、と足が流れる。

考えるより先に、身体が動いた。
彼の制服の胸元を、ぎゅっと掴む。
そのまま、彼の胸にぶつかった。

どん、と鈍い音。
彼の腕が、とっさに彼女の背を支える。
風の音が、耳鳴りのように遠くなる。

近い。
近すぎる。
制服越しに伝わる体温。
彼の鼓動が、彼女の頬に触れる。

彼女は顔を上げられないまま、小さく息を呑んだ。

『ち、ちが……これは……』
違わないのに。
違わないことを、言えない。

彼はしばらく黙っていた。
それから、くすっと笑う。

「ずるいね」

その一言に、彼女の肩がぴくりと揺れた。

顔を上げると、彼はどこか困ったように、でも嬉しそうに笑っている。

「これじゃ断られないや」

春一番が、もう一度強く吹いた。

彼女はやっと気づく。
昨日のメッセージの続きが、まだあったことを。

「ほんとはさ、そこまで遠くない。電車で一時間くらい」
いたずらが成功した子どものような顔。

彼女は一瞬、呆然とする。
『……ずるいのは、そっちでしょ』
やっと出た言葉は、少しだけかすれていた。

彼は目を丸くし、それから笑う。

「やっと言った」
屋上の空は、すっかり春の色に変わっていた。

言葉はうまく言えなかった。
かっこいい告白もできなかった。

でも。
風に背中を押されるみたいに、彼女はもう一度、彼の制服を握る。

『……好き』
今度は、噛まなかった。

春一番は、二人の間を通り過ぎて、校舎の向こうへ抜けていった。
冬が終わる音が、どこかで小さく鳴った気がした。



今回の短篇は、
事件タロットの三枚のカード を軸に組み立てています。


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