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ヴォネガット『プレイヤー・ピアノ』を読む

もう70年も前の小説なのに、すごく今日的な世界だと思った。
ニューヨーク州イリアムという架空の街は、三つの区画に分断されている。ハイクラス人材が暮らす区画、機械が働く区画、引退した人たちの区画。

この近未来のアメリカでは、労働は機械によって置き換えられ、残された人間の仕事は、エンジニア、医者、一部のサービス業のみ。

大学の学位は必須で、それがないと機械による審査で弾かれてしまう。適性をもとに職業が決められ、適性が何もない人間は、通称“ドジ終点部隊”と呼ばれる道路工事の仕事か、軍隊に行くしかない。最悪な世界だ。えっ、今もそうだって? 確かにそうかもしれない。

『プレイヤー・ピアノ』は、『タイタンの幼女』『猫のゆりかご』のカート・ヴォネガットによるデビュー長編で、600Pくらいあって分厚い長編。

『タイタンの幼女』がぼくの読んだことのある唯一のヴォネガット作品だったけど、本作はそれに比べて、派手な展開は少なめ。というか『タイタンの幼女』がトンデモ展開すぎるのか。

ストーリーは、イリアム製作所という工場の所長であるポールが、今の仕事や世界に違和感を抱えていて、退職してしまおうか……でも妻もいるしなぁと、モヤモヤ悩みながら、あっちこっちの人と出会って話したりして、最終的には“幽霊シャツ党”という怪しい反政府運動のリーダーにされるという流れです。

ストーリー自体は動きが少なく、魅力の大半は、この機械が人間を疎外するディストピア世界の描写に費やされる。
ヴォネガット風のブラックユーモアが効いていて、たとえば、優秀なエンジニアがいて、彼の作った装置というのがあまりにも凄く、結果、そいつの仕事を完璧に代替し始めて、クビになるとか。
なのに、主人公の秘書の、ボタンを押して訪問者を門のなかに入れるだけの仕事が機械化されていないとか笑。あまりに不条理。

しかしAIが急速に発展してきている今の世界にとっては、笑いごとではない。ヴォネガットの問いはシリアスそのもの。
便利な社会を作って、その果てに何があるのか?

ポールはある種のエリートで、特権階級に属する人物だ。しかし機械に仕事を奪われた人たちを見るにつれ、彼らに対して罪悪感を覚えるようになる。
そして、田舎に農場を買って、そこで昔ながらの生活を始めようとする。
ポールにとってはそれが理想なのだ。

自然と格闘するような生き方に、人間としての生きがいを感じる。
しかし、彼の妻はそれをまったく理解できず、結局、謎の反政府運動のリーダーになってしまって、革命騒ぎになるのがクライマックスになってくる。

街じゅうの機械が、幽霊シャツ党とそのシンパによって、めちゃめちゃに破壊され、蹂躙されるのだ。しかし革命は、中途半端に達成され、人間はしばらくの間、機械なしで暮らさなくてはならなくなるものの、やがては復興するだろうと宣言される。

そして廃墟の街では、さっきまで機械を破壊して騒いでいた連中が、壊れた自販機をなんとか直そうとしている。ドジ終点部隊にいた男が、ささっとそれを治すと、みんなが歓喜の声をあげる。そして、別の機械も治そうとし始める……。

結局、元の木阿弥というか、また同じことがくりかえされるのだろうことが暗示されて終わる。でもそのユーモラスさ、どうしようもなさ、それが人間なんだから仕方ないという半分の肯定。

ヴォネガットは決して機械文明を全面否定して、自然に帰れなどと幼稚なことは言わなかった。
科学の発展という歴史は、人間に生きがいと尊厳を与える物語などではなかったようだ。最後には、人間がそこから追い出されしまうのだから。

そんなときは「So it goes」(そんなもんさ)といって肩をすくめ、ユーモアと親切を忘れないようにするのが、おすすめの生き方だ。

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