短編小説:「野球を知らない僕のままで」
2024年のプロ野球は、不思議な幕切れだった。ソフトバンクホークスが、まさか日本シリーズでDeNAに敗れるとは。だが、驚きよりも「まあ、そんな年もあるさ」と妙に落ち着いている自分がいた。私は山田健一、四十代の会社員だ。ダイエーホークス時代から30年以上のファンだ。
思えば、あの頃のホークスは弱かった。勝てなくても、ただ応援する時間が楽しかった。今や常勝軍団だ。勝って当たり前、負ければ批判される。けれど、アラフォーになってからは、勝敗を超えた楽しみ方を覚えた。野球選手も人間なんだよなあ、そんなふうに思えるようになった。
小学生の頃は西武ライオンズのファンだった。西鉄ライオンズの名残で、福岡には西武ファンが多かった。黄金時代の秋山、清原は憧れの的だった。クラスでは巨人帽か西武帽が定番だったが、私は南海ホークスの緑の帽子をかぶっていた時期がある。少し浮いていた。一年ほどで西武帽に替えたが、妙に記憶に残っている。クラスメートには、オリックスブレーブスの帽子をかぶっている子もいた。今思えば、あれも不思議な存在感だった。
野球は、当時の子供たちにとって憧れの存在であった。Jリーグはまだなく、休み時間は、バットとグローブを抱えて駆け出していた。小学校の男の先生達も野球好きで、日本シリーズの時期には、教室のテレビでこっそりと試合を流していたこともあった。子供会にはソフトボールチームがあり、四年生になれば入れる。それが楽しみで仕方なかった。
ようやく迎えた練習初日、キャッチボールで肘を痛めた。「痛いです」と小声で訴えると、コーチが「ああ、そうか」と困ったように笑った。帰り道、一人で俯きながら歩いた。期待していた分、情けなくて、悔しかった。
家に着くと、母が「どうしたの?」と声をかけてきた。私は肘をさすりながら「痛めた」と答えた。母は黙って湿布を貼ってくれた。あの手の温かさは、今もふと甦る。痛みよりも、仲間に加われなくなった寂しさが、ずっと尾を引いた。
それ以来、球技とは縁がなくなっていた。スポーツ観戦は好きでも、どこかにあの時の記憶が引きずっていた。運動部には入らず、文化系の部活で楽しく過ごした。気づけば大人になり、体を動かす機会も減っていった。
ところが、四十手前頃から、少しずつ変わっていった。身体を動かすことが、心地よくなってきたのだ。ジムで軽く汗を流し、時おり武道も習う。「無理をせず、自分のペースで」。それがちょうどよかった。若い頃は結果を求めていたが、今は練習や稽古そのものに価値や楽しさを感じることができる。
その日も、まだ少し肌寒かったが、隅田川沿いを走ることにした。ジョギングシューズを履き、外に出る。「今日も頑張れる」。そんな気持ちになれる自分が、少し誇らしかった。
川沿いには梅の花がほころんでいた。公園では親子がキャッチボールをしていた。小学生くらいの男の子と、カジュアルな服装の父親。楽しそうに声をかけあい、ボールを投げている。私は思わず足を止めた。
胸の奥に、静かに波紋が広がっていった。
父とのキャッチボールを思い出した。当時、父は仕事が忙しく、休みも少なかった。それでも、たまの休日に「行くか」と誘ってくれた。グローブは誕生プレゼントに買ってもらったものだった。父は運動神経が良かった。私が捕り損ねると、黙って投げ直してくれた。夕暮れの公園、私と父、ぽつんとボールが行き来する景色が、春風と共に蘇る。
「あの時、続けていたらどうなっていただろう」。肘を痛め、母が湿布を貼ってくれた日。もしあれがなければ、今も野球を続けていただろうか。上手くなっていたかもしれない。でも、やはり怪我をして辞めていたかもしれない。
答えは出ない。ただ、今、こうして走っている。四十を過ぎても、まだ足を動かせる。風を感じられる。それが、きっと答えだ。
再び、ゆっくり走り出す。親子の姿を横目に、初春の風を胸いっぱい吸い込む。
今日は、いい天気だ。もう少し、先まで行ってみよう。
(完)
この作品は、花澤薫様主催の個人文学賞「すべて失われる者たち文芸賞」に応募しております。発表の機会を下さった、花澤様に感謝申し上げます。(本文文字数:1637文字)
