雨天時の人間のあり様を端緒とした社会に生きる現代人の考察
友人Hから、始めてnoteを書く際は自己紹介をテーマにすると良いと聞いた。しかし、アカウントを作って放置していたところ、丁度今書きたいことが出来たので自己紹介をしてる場合ではない。一般国民と違い僕は忙しいのである。なので推敲はしない。粗を見つけそれをぜひ議論の対象として欲しい。
今回のテーマは上述のとおり「雨天時の人間のあり様を端緒とした現代人の感覚の考察」である。
これを読まれている各々方は日常の中の「雨」に対してどのように感じ、どのように対応するのだろうか。憂鬱になる、傘やかっぱを持っていく、今日はお店に人があまり来ないだろうと予測するなど様々な事象・感情などを人間様に引き起こすものである。そして、それが趣として捉えられ詩として残されている。最近の作品でも灯橙あか氏の「雨音スキップ」という曲は、雨の日を題材にしたものであり、雨を人間の感情に照らし合わせ歌っている。これらのように、人間様のあり様に大きな影響を与えるものであることは疑いようのない事実である。
ここからは僕の今日のお話である。今日(2026/8/14)に僕は千葉県の某所でイベントスタッフで勤務している。しかし、昨日からこの付近一体は台風による大雨警報が出ていて、なんなら稲毛海岸在住の友人Kによると避難勧告が出ているらしい。わざわざ避難勧告が出ている地域に向かうというとんだ大立ち回りである。
そこで僕は休憩中、便所にお花を摘みに行くことにした。その時、少々雨が振っていたが、とるに足らない程度だと思いそのまま便所に向かった。勘の良くない方もお気づきだろうが、たくさんお花を摘んだ後、外を見ると雨が振っているのである。しかもむっちゃ強めに。
便所付近のスタッフに傘やかっぱを貸してほしいと依頼するのは、される側の気持ちを知っている僕としては不可能(イベント系は大体偉い人に確認するのが安牌だから、単発のガキは裁量があんまりない)と感じて「待つ」か「突っ切る」の2択を迫られたのである。余談だが、その偉い人を見つけてスマホだけでも濡らしたくないから使わない袋(かっぱの梱包用が絶対にある、なんなら目の前に)をほしいと依頼したら確認せず断られて殺してやろうかと思ったのは秘密である。事情はあるのだろうが、僕はここで粋な対応が出来る「粋な」人間を目指している。閑話休題、雨をどうくぐり抜けるかが喫緊の課題となってしまった。困った。
ここで僕は考えて愚図愚図しているのはうざいと考え雨の中を突っ切ることとした。
「意外と気持ちが良い。」
ただ涼しいだけでなく、雨が体を滴り落ちる感覚や髪が濡れてまとまっていく感覚などなかなか悪くない。よしんば、この後に大事な予定があればただごとではないが、今回僕は気持ちが良かった。
僕、ひいては文明的な人間様全体に言えることだが、雨に濡れることを忌避している傾向が強くあるのではないかと考える。雨は水である。それに濡れても死ぬことはない。なんなら皆風呂に入るし、入らないものは「風呂キャンセル界隈」という侮辱的なレッテルを貼られる。
ではなぜ、人間様は雨に濡れることをここまで強く忌避するのだろうか。その所以を僕の主観から幾つか考察する。
①服が肌にペタペタするのがキモい
⋯⋯詳細な説明は不要だろう。現に今僕の服はペタペタしている。
②濡れたままでは「ヤバいヤツ」だと思われる
⋯⋯場合によるが、現代社会においては事実であると考える。たしかに、テントに戻った時一部の者は「おぉ」という顔をしていた。
しかし僕としてはこの感覚には賛同しない。濡れていることを「ヤバい」とするのは、「びしょ濡れだと周りも濡れる」という実利的な面が先に存在している。人類の創造した文化的な空間は濡れることを想定されておらず、そこを濡らすことは冒涜的行いとされる。それを防ぐためには濡れていない必要がある。だから傘を持ち歩いたり、かっぱを着たりするのである。つまり濡れていること自体には問題が無く、それを悪とするのは社会というシステムによって生じてしまった誤解なのである。少し論理的に考えればわかることであるため、これがわからないやつはもう少しがんばって生きた方が良い。
③雨は汚いと思っている
⋯⋯古来、雨は「恵みの雨」ともされており、その恵みを傘やかっぱで防ぐなどというのは実は蛮行であるのかもしれない(恵みの拒絶)。
しかし、雨は汚いのだろうか。実際は知らないが、そんなことをいちいち気にしているやつは勝手に死ぬだろう。
現代の衛生環境により、人間様が生きやすい環境になったのは事実だが、人間様が弱くなったのもまた事実ではないだろうか。「汚い」と思うから汚いのである。冷静に考えて家にいる「ゴキブリ」より、外にいる「クワガタ」の方が汚いと思う。ただ僕はクワガタは触れるが、ゴキブリは触れない。上記は極端な例だが、我々は「汚い」を再考する必要があると考える。
④外は風呂じゃない
⋯⋯先ほど、雨に濡れることと風呂に入ることとをともに論じた。しかしこの2者を完全に同じものとして論じることはもちろんできない。では「雨」と「風呂」を分かつものは一体何なのだろうか。
一つの提言として、風呂は家や温泉などで自分から入るものである。前者であれば既に帰宅しているか、出かける直前の朝風呂などで、後者であれば、ある一つの目的地として完結している。それに対して雨は屋根が無ければいつ何時でも浴びる可能性を秘めているという点である。このようなことから風呂は「能動的な終着点もしくは開始地点」と位置づけられ、雨は「受動的でかつ不可避の中継地点」といったように考えられる。家や温泉では濡れることを意識する必要がある社会的営みの途中に無いのである。故に、その中継地点で濡れる雨は忌避されるのだ。しかし、これは文化的な人間様にのみ相違なく当てはまるものであり、発展途上国の方々や動物には当てはまることはないため「真理」でなく社会に縛られた社会的存在であるからである。
②と合わせて人間様は雨ではなく、社会の批判にさらされることを恐れているという側面が強いのではないだろうか。
ざっと僕が勤務の休憩中に思いついたのは上記の通りである。①を除いて、社会的帰属や衛生観念に基づくものであり、雨に濡れることはやはり忌避するに値しないと考える。正味暴論ではある。
しかし、この「雨に濡れること」に対する人間の感覚を考察してみると、社会や社会的集団、そしてそれに準ずるものによって支配され歪められた様々な人間の真なる感覚が存在しているのではないだろうか。
最後に実際に雨に濡れた後、勤務して感じた雨に濡れる「気持ちい」意外のメリットを一つ論じる。それは涼しさが持続する点である。勤務会場でミストが撒かれていたが、それは体中を大雨で濡らすことの下位互換である。それを機械仕掛けで行うのは、あまりに文明に脳を侵されており、恥ずかしいことである。そんなことをせず、雨に打たれる。雨で濡れること、すなわち体中で水を浴びることは「異次元の熱中症対策」なのだ。
