限定的な正しさ
スピリチュアルのような見えない世界を盲信している人を見てバカにしたくなるような瞬間はあるだろうか。
「どう考えても間違っているのに」と思ったことがあるかもしれない。
その「どう考えても」とは何を基準にしているのだろうか。それは、事象によって異なるかもしれないが、科学的・医学的・物理的な知識等を基に判断しているのではないだろうか。
では、それらの学問はどのように出来上がっているのか。
人間が設定した前提条件と定義した情報によって成り立っていると私は思う。例えば、算数で「1+1=2」となるのは、数や記号をそう定義したからにすぎない。また科学や物理も、私たち人間が現象を知覚し、観察や検証を通じて因果関係を見いだすことで形づくられている。
もし、前提条件や定義が変われば学問は成立しなくなる。
「学問的に正しい」とは、「その学問が採用している前提条件と定義に従ったときに導かれる妥当な結論」だと思う。つまり、絶対的な正しさではない。
さらに、人間は間違える。例えば、昔の医療では瀉血(しゃけつ)が当たり前に行われていた。発熱や咳、下痢のような体調不良でさえ、治療として血を抜いていた。血を抜けば病気が治ると信じられていたからだ。当時はそれが「医学的に正しい」とされていた。
しかし現在では、それはかえって患者を弱らせる不適切な医療だったと分かっている。
同じことが今の時代に起こっていても不思議ではない。現在正しいとされているものは、いずれ間違いになる可能性がある。
学問は絶対的な正しさではない
人間は間違える
スピリチュアルのような見えない世界を盲信する人に疑問を感じる一方で、学問を絶対視するのも同じくらい危ういと感じる。
どちらも、現在の定義に従って導き出された「一つの結論」にすぎないのだから。
