ぼくらは物語で生きている──ナラティヴ・メディスンという、優しい処方箋
ぼくらは自分の物語を「書きながら」生きている。たとえ実際にはペンを持つこともなく、キーボードを叩くこともなかったとしても。そして、ときにその物語の力で、自分の病いを癒すこともできる。
いまや日本むかしばなしとも言えそうだけれど、昭和の時代、人々は医者を絶対的に信頼していたものだ。「先生様」なんて呼ぶ人も少なくなかった。もちろん、その信頼がつねに報われるとは限らず、治療がうまくゆかなければ「ヤブ医者だ!」と呪いの言葉を吐く。けれども、それもまた絶大な信頼が前提にあってのこと。医者を神様のように信じたからこそ、失望が怒りに変わるのだ。
ところが、ここ数十年のあいだに人々のあいだにじわじわと医療への不信感が広がっている。なぜか?──薬だけでは、どうにもならない患者さんが増えてきたからである。たとえば、「頭痛がする」と訴える人がいる。脳の検査は異常なし。血圧も正常。でも、頭痛は3年、いや5年、続いている。薬は効いたり効かなかったり。いったいなにが問題なのか?
よく考えてみれば、ぼくらはみんな、家庭、仕事、人間関係、経済的事情……さまざまな条件が入り組んだ世界のなかで生きている。病気もまた、その複雑な背景と無関係ではいられない。体の不調はときにその人の〈人生そのものの歪み〉を映す鏡になる。
他方、医療の側ももはやこの問いを無視できなくなっている。さまざまな試みがなされている。そのうちのひとつが──ナラティヴ・メディスン(Narrative Medicine)、つまり「物語による治療」である。これは、病を抱えた人が、自分の物語を語り、治療者がそれを丁寧に聴くというもの。会話が交わされるうちに、少しずつ、ほんとうに少しずつ、患者の病が和らいでゆくことがある。クスリではなく、言葉と共感によって。
このとき、治療者はもはや「薬を出す人」ではなく、「話を聴く人」になる。そして「ともに意味を探す人」にもなる。
フロイトの再来か? ある意味ではそうかもしれない。しかし、精神分析よりももっと穏やかで、もっと現代的な佇まいをしている。かれらは問う。
──なぜ、この人はいま、身体症状で苦しんでいるのか?
──この人の人生の中で、この痛みはどんな意味を持っているのか?
つまり、かのオリヴァー・サックスが語ったように、「人は病気になるのではない。物語を抱えて倒れるのだ」という理解へと、医学は少しずつ歩み出している。
たとえば、ある患者が「喉が苦しくて、眠れない」と訴える。
主流派の医者なら、喉を診て、検査して、薬を出す。
他方、ナラティヴ・メディスンの医者はこう訊ねる。
「それは、いつからですか?」
「そのとき、何があったのですか?」
「ご家族のこと、お仕事のこと、話していただけますか?」
こうした問いを通して、医師は症状の奥にある〈人生の風景〉を見ようとする。
そして患者は、ゆっくりと語り始める。「実はですね、去年、夫を亡くしました。葬式やら手続きやらで走り回って……気がついたら、何も手につかなくなっていたんです。掃除も、食事も。お酒の量も増えました。」
その語りを聞いて医師は気づく。──これは喪失の物語なのだ。
なぜ、ナラティヴ・メディスンは広く普及しないのか?
理由はひとつ。現代医療の主流があくまでも薬理ベースだからである。外来で毎日百人診る医者には、患者の物語を聴く時間などとうてい持てない。検査結果と数値を睨み、的確な処方を下すことが第一の任務なのだ。仕方のないことではあって。医療の現場は、システムとして、そう動いている。しかしこのシステムもまた、病んでいるのだ。
もっとも、だからといって、薬理ベースの治療を全否定することもできない。現代医学は人類の偉大な知の蓄積の上あり、数多の命を救ってきた。それに対して、安易な代替医療にすがって命を落とした例も枚挙にいとまがない。
しかし、それであってなお、ぼくらはもっと自分自身の物語を語ってもいいのではないだろうか。自分の物語を誰かが聴いてくれるなら──
あるいは、自分自身で自分の物語を聴き直すことができるなら──
自分が語る物語の力で、ほんの少しでも、自分を癒すこともできるかもしれないのだから。
そんなわけで、この文章をあなたへの感謝で締めくくろう。
いつもぼくのブログを読んでくださって、ありがとう!
ぼくはあなたにスパークリング・ワインをごちそうしたい。
補遺:アルゴリズムとしての生
人の生き方には、その人固有のアルゴリズムがある。
そのアルゴリズムは、判断を導き、選択を決め、行動を規定する。
しかし、多くの人は、自らのアルゴリズムの存在に気づかず、
それを理解していない。
むしろ、アルゴリズムに「生かされている」とさえ言える。
病いとは、このアルゴリズムがうまく機能していないことの現れである。
選択がずれ、判断が狂い、行動が滞る。
生が、アルゴリズムに抗うように軋み出すとき、
身体や心に異変が生じるのだ。
ならば、治療とは単なる投薬や手術ではなく、
その人のアルゴリズムの再設計――
言い換えれば、「物語の書き換え」であるべきなのではないか。
なぜなら、その人のアルゴリズムとは、
他ならないその人の物語にほかならないからである。
