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AI時代のカント:第一部:純粋理性批判 2.0――カテゴリーのアルゴリズム化 前編 

第一部:

まずはマクラから始めましょう。キスはエロスかロマンティック・ラヴか? インド映画はおおむね純情可憐で道徳的なもの。インド映画には数々のお約束があって、たとえば結婚はけっして犯してはならない神聖なものであり、浮気のひとつもしようものなら男も女も地獄へ堕ちなくてはならない。また興味深いことに、男女のキスはけっして映してはならないものであり、男女の唇が触れ合う寸前で、カットは切り替わるのである。なぜか? それはインドにおいては、キスは愛のカテゴリーではなく、エロスのカテゴリーなんですよ。前述のとおりインド映画は道徳的であらねばならないゆえ、キスシーンを映すことはできません。ハリウッド映画が盛大に啓蒙した、キスこそが男女のロマンティック・ラヴの象徴であるのとは大違いですね。――つまり、同じ行為、同じ現象であっても、私たちはそれを「どのカテゴリーに割り当てるか」によって、まったく異なる世界を経験しているということになる。カテゴリーとは、私たちが世界を仕分ける〈見えないアルゴリズム〉なのだ。さて、この論考はここからカントのカテゴリー論へと進んでゆく。

1|カテゴリー論で考えるカント VS AI

AIの知性は、一見カント的だ。
AIもいわばカントが論じ、定式化したカテゴリーを使っているかに見える。
でも、ほんとうにそうだろうか?

カントのカテゴリー論は非常にややこしいので簡単に説明できるものではないけれど、ひとことで言うならば、思考の形式~枠組のこと。対象がなんであれ、人間はその対象をすべてそのまままるごと扱うことは不可能である。したがって、人間は対象を「原因と結果」、「実体と属性」、「可能性」などの形式を通じて、はじめて思考の対象にすることがことができる。ここだけ理解しておけば、まずは十分である。

こうした基本的な概念を、人間は経験から学ぶわけではない、(とカントは考えた。)むしろ、カテゴリーは、人間が経験を「経験として成立させる」ための前提なのだ。カントのカテゴリーは、いわば人間精神の〈推論エンジン〉だった。経験とは、データベースではなく、あらかじめ定義された関数を通してしかクエリ(命令文)を投げられない世界のことなのだ。すなわち、私たちはたとえば「因果性」を意識的に選択して適用するのではなく、すでに因果的に世界を見てしまっているのだ。ほんとうはたとえば原因/結果の関係にしてもそう簡単にわかるものではない。そしてそんなことはカント自身重々承知のことなのだ。

ここに、ひとつのパラドックスがある。
私たちは世界を経験することによって学ぶのではなく、
あらかじめ悟性が備えた形式によってしか、
経験を「学ぶことができない」。
つまり、人間が世界を知るということは、
自分の内に埋め込まれたソフトウェアの
仕様書を読み解くことにほかならない。

なお、カント自身はこのカテゴリーについて論理哲学的な分類を精緻にほどこしたわけだけれど、それについてはカント学者のみなさんにお任せしておきましょう。


2|統計から見いだされる因果関係をどう考えるか?

AIの出現によって、この構造(思考の形式~枠組)はいきなり可視化された。
AIもまた、データをそのまま「見る」ことはできない。
AIは無数のデータ(経験)を統計的に処理し、
そこから「パターン」や「法則性」(判断)を抽出する。
数値や画像や言語の背後から、
特徴(feature)を抽出し、重みづけし、
それをカテゴリー的な枠組みの中に配置する。
ディープラーニングの層構造は、
ある意味でカント的な悟性を模倣している。
AIは、データのなかに〈カテゴリー的形式〉を探しているのだ。
しかもその過程は、カントが「悟性」と呼んだものよりもはるかに厳密で、
かつ速度を持っている。
AIは、悟性の〈形式化された残響〉として立ち上がっている。

ただし、重要な違いがある。カントにとって、カテゴリーは「私」の認識を可能にする条件だった。しかしAIには「私」がない。ならば、AIのカテゴリーは誰の認識を可能にしているのか?――それは、AIを使用する人間たちの、集合的認識なのかもしれない。

だがここで、ひとつの不穏な帰結に行き当たる。
もしもAIの悟性が「集合的認識」の模倣にすぎないのだとすれば、
そこにおける「真理」はもはや統計的な多数派の形を取るだろう。
AIが出力する正解とは、〈最も頻出する世界像〉にほかならない。
それは「正しい」というよりも、
むしろ、「最もよく出現する」だけのものなのだ。
私たちはここで呆れ、憤慨し、抵抗しなくてはならない。
真理を多数決ごときで決められてはたまったものではない。
もはや人間の理性は崩壊寸前である。

いま、理性の構造が静かに反転している。
かつてカントは、個人の理性を「啓蒙」の原動力として位置づけた。
他人の意見に従うのではなく、自分の理性を使え――それが『啓蒙とは何か』の教えだった。
だがAI時代の理性は、個人の理性ではなく、〈総体の理性〉、
つまり「統計的理性」へと変貌しつつあるのだ。

そこでは、「私」が世界を構成するのではなく、
世界のデータが「私」を構成する。
「考える人間」は、「考えられる人間」へと置き換えられつつあるのだ。

しかも、AIのカテゴリーは可変的で、経験(データ)に応じて更新される。
AIにおいてカテゴリーは「先験的な形式」ではなく、「学習によって生成される形式」なのだ。
AIは経験を通して悟性をつくり出す。

人間は、判断するたびに世界を引き受ける。
「この出来事を因果として理解する」
「この出来事に意味を与える」――
そのたびに、人間は世界を構成し直す主体として、
自己の責任と有限性を意識する。
しかしAIは違う。
AIの判断は、世界を構成しない。
それは世界を「シミュレート」する。

AIは「意味を理解する」のではなく、
「意味を再現する」存在なのだ。

他方、カントにとって、認識とは世界を構成する行為だった。私たちが「AはBの原因である」と判断するとき、私たちは世界に因果的秩序を与えている。これは単なる「発見」ではなく、能動的な「構成」なのだ。

しかしAIは構成しない。AIは訓練データに含まれるパターンを再現するだけだ。AIが「AはBの原因である」と出力するとき、それはAIが因果性を理解しているのではなく、そのような表現が統計的に高頻度で共起することを学習しているに過ぎない。

ここに、理解と模倣の深淵がある。カントが問題にした「総合判断」――新しい認識を生み出す判断――は、本当にAIに可能なのか? それとも、AIはどこまでいっても「分析的」な存在なのか?

それでもAIは、世界を〈模倣〉することによって、奇妙な新しい世界を生み出している。
模倣はときに創造を凌駕する。
その瞬間、カントの理性批判は反転し、悟性は悟性自身を批判する。
理性は自らの模造品の中で、もう一度「限界」を発見するのかもしれない。



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