見出し画像

【韓国現代文学を読む。その4】ハン・ガン『菜食主義者』ーー日常生活においてさえ、世界は暴力に満ちている。

ハン・ガンは2024年のノーベル文学賞作家である。彼女の代表作は、光州事件を描いた『少年が来る』と済州四・三事件を描いた『別れを告げない』であることは、文学読みにとって当然の評価ではあるでしょう。しかし、他方で、彼女には一見日常的な見かけをとった題材の、『菜食主義者』もあれば、『すでへの、白いものたちの』もあって、あるいは韓国人以外の世界の読者にはこちらの方が理解しやすいとも言える。両者を繫ぐキー・ワードは、この世界に潜む暴力、と言うことにはなるでしょう。しかし、そんな観念的な理解で済ませてしまうならば、小説を読む意味などどこにもない。まずは、『菜食主義者』を読んでゆきましょう。

『菜食主義者』は3つの中編「菜食主義者」「蒙古斑」「木の花火」で構成されている。それぞれ独立した存在ながら、しかし同時に『菜食主義者』なる長編小説としても読める。

主人公は、特に個性的でもなければ、ましてやエキセントリックでもなかったごく平凡な女性でありながら、不気味な夢を見たことをきっかけに、いつのまにか少しづつ肉を食べることができなくなってゆく女性、ヨンヘ。いったい彼女はどんな夢を見たのか。暗い森のなかで彼女はひとりで迷っていた。楽しそうに誰かたちはピクニックで肉を焼き、食べている。彼女の服はなぜか血だらけで、彼女はうずくまる、その夢をきっかけにしたヨンヘの変貌を、夫の立場から困惑とともに描いてゆく。同時に、彼女はブラジャーもつけなくなってゆく。そこに夫への性的誘惑のそぶりは微塵もない。実は、ヨンへは幼い頃から父親の暴力に晒され、結婚後も夫の無意識的支配下で管理されてきた。そんなヨンヘは、ますます悲痛な夢を見るようになってゆき、拒食症となってゆく。夫はとまどい焦燥する。周りとのコミュニケーションも途絶するうち、ヨンヘは植物になることを夢想する至る。

続く「蒙古斑」がまた凄い。ある時、芸術家の男が、妻の妹のヨンヘにモデルを依頼する。裸体の彼女の全身に花のペイントをするのだ。かれは夢を見る。ヨンヘの尻には蒙古斑がなく、そのかわりに彼女の全身に薄黄色がむらなく広がっているのだ。女の体に絵を描く。比喩的にはそれはあらゆるヘテロ男の夢かもしれない。しかし、それが女の精神を傷つけることだとしたら? この短篇(あるいは章)は、恐ろしい次元に踏み込んでゆく。

最後の短編(あるいは章の)「木の火花」が幸福であるわけがない。なんと彼女の静かな抵抗、拒否の姿勢は・・・いいえ、ここから先は書けない。

以下で、この小説を解説してみよう。

Ⅰ 家父長制のミクロ構造――「普通」という名の暴力

第一部で恐ろしいのは、父親の暴力でも、夫の無理解でもない。
それらがあまりにも自然で、合理的で、説明可能であることだ。

夫は言う。
「私は平凡な男で、平凡な妻を望んだだけだ」

この「だけ」が恐ろしい。

ヨンヘは特別な反抗をしたわけではない。
肉を食べない。ブラジャーをつけない。
ただそれだけだ。

しかし、その「だけ」が、家庭の秩序を壊す。

なぜか。

食卓は共同体の象徴だからだ。
肉を食べることは、同じ血肉の論理に従うこと。
父の言葉に従うこと。
夫の生活設計に組み込まれること。

ヨンヘは叫ばない。
革命も起こさない。
ただ拒否する。

拒否という最小の行為が、
制度の全体像を露出させる。

家父長制は、殴打だけで成立しているのではない。
「普通であれ」という同調圧力の連鎖によって維持されている。

だからこそ恐ろしい。

読者は気づく。
自分もまた、誰かに「普通」を強いていないか、と。


Ⅱ 欲望と芸術の倫理――美は免罪符になるか

第二部「蒙古斑」は、さらに不穏だ。

芸術家の義兄は、ヨンヘの身体に花を描く。
彼はそれを「純粋な美の追求」だと信じている。

だが、ここで問われるのは、

美は暴力を中和できるのか?

という問題だ。

かれの視線は、父の暴力よりも洗練されている。
夫の支配よりも言葉がある。
だが本質はどうだろう?

ヨンヘはキャンバスになる。
人格は希薄化する。
沈黙は、同意と誤認される。

芸術はしばしば、欲望の最も高度な言い訳になる。

「これは愛だ」
「これは創作だ」
「これは純粋だ」

だが、その純粋さは、
あきらかに、他者の主体を奪っている。

ここでハン・ガンが踏み込んでいるのは、
単なる男女関係ではない。

それは、

  • 表現はどこまで許されるのか

  • 他者の身体は誰のものか

  • 沈黙は同意なのか

という、芸術そのものの倫理問題だ。

そして恐ろしいのは、
この義兄が怪物ではないことだ。

彼は「感受性のある男」なのだ。

だからこそ読者は逃げ場を失う。


Ⅲ ふたつの暴力はつながっている

父の暴力は直接的だ。
芸術家の暴力は間接的だ。

しかし両者は同じ構造を持つ。

  • 他者を自分の秩序に組み込む

  • 他者の身体を意味化する

  • 他者の沈黙を利用する

ヨンヘは肉を拒否した。
だが彼女は、他者の欲望からは逃れきれない。

その極限で、彼女は植物になることを夢想する。

植物とは、
支配しない存在。
欲望しない存在。
加害しない存在。

だが同時に、
意味を持たない存在でもある。


Ⅳ 読者への逆照射

この小説は告発の書ではない。
むしろ鏡だ。

  • 私は誰かに「普通」を強いていないか

  • 私の創作は誰かを道具にしていないか

  • 美という言葉で、自分の欲望を正当化していないか

ヨンヘは異常なのではない。
彼女は、暴力を可視化する装置なのだ。

だから『菜食主義者』は、
歴史小説よりも怖い。

なぜなら、
読者の生活の内部で同じ構造が作動しているからである。




いいなと思ったら応援しよう!