【ショートショート|読了3分】『トロッコの先の一人』
なにやらあたりが騒がしい。もう朝になったのだろうか。
なぜか、暖かいはずのベッドが固く冷たく感じる。
どことなく、油と金属と土の混ざった香りがする。
恐る恐る目を開けると、薄闇の中に信じられない光景が広がっていた。
私は線路の上に横たわった形で括りつけられていた。
ロープで何重にも縛り上げられており、身体を動かすこともできない。
一体何が起こったのか。
必死に昨日のことを思い出そうとするが、あまりのことに頭が回らない。
かろうじて動く首をひねり、辺りを見回してみる。
私の横には同じように四人の男が括りつけられていて、必死に何かを叫んでいる。
想像もしたくない、いやな予感が頭をよぎる。
そう、これは有名なトロッコ問題の思考実験そのものなのだ。
案の定、線路の少し先には切り替え機のようなものがあり、横に一人の男が立っているのが見える。
切り替え機のもう一方の線路の先は見えないが、恐らく別な誰かが括りつけられているのであろう。
切り替える人物の判断で、五人を殺すか、一人を殺すかを選ぶのだ。
四人の男たちの叫び声が少しずつ言葉としての形を帯びてくる。
ーー思い直せ
ーー社長がすべて決めたことだ
それを聞いて、全てを思い出した。
私はとある会社の社長だ。
そしてこの四人は重役たち、そして切り替え機の男は、昨日解雇を申し付けたもう一人の重役だ。
致命的な不祥事だった。彼だけの責任ではなかったが、スケープゴートが必要だったのだ。
彼には充分すぎるほどの対価を与えたはずだ。
ささやかな送別会のようなものを催して、そこから先の記憶がない。
そうだ、これは復讐なのだ。
今、我々の命は、あの男の手に委ねられているのだ。
しかし、意図が読めない。
殺したいほど恨んでいるのであれば、線路の上に運んで並べるなどという面倒なことをする必要などないではないか。
なぜこんな回りくどいことをするのか。
そして、もう一人の犠牲者はいったい誰なのか。
徐々に空が明るくなってきた。
正確な時間は分からないが、まもなく始発列車がここを通過するはずだ。
今まで暗くて分からなかった男の顔に徐々に光が差す。
……笑顔だ。満面の笑顔である。
「誤解していただきたくないのですがーー」
唐突に男が語りだした。
「私は決して復讐したいわけではありません。会社を存続させるためには、誰かが責任を取らねばならなかったのですから」
「ただ、今回のことで人生の終着を悟ったのは事実です。私は独り身ですし、もう仕事への情熱も沸かない。ならば、せめてずっと疑問だったことを明らかにしてから終わろうと思ったんです」
「それは、トロッコ問題という命題です」
男はゆっくりと切り替え機のレバーを動かし始める。
金属の軋む音が響き渡る。
ーー頼む、助けてくれ!
誰かが叫ぶ。
「あの思考実験は、切り替える人物の選択の正当性を問うものでした」
「しかし、それは傲慢ですよね」
「切り捨てられた一人にも人生はある」
男は嬉しそうにこちらの反応を見ながら左右交互に切り替えることを繰り返していたが、
最終的に、何と左右のどちらでもない真ん中にセットした。
ーー馬鹿な、それでは車両が脱線する!
そして男は静かにもう一方の分岐先に向かい、線路の上に横たわった。
「これがやりたかったんです。ねえ、面白いでしょう」
「誰かに責任を押し付けるなんてことをするから、話がややこしくなるんです」
「最初から、すべてを運に委ねればよかったんです」
「大丈夫。奇跡が起これば助かります」
言葉もない。
ーー死にたくない!
重役たちは泣き叫んでいる。
「さあ、審判の時が来ましたよ!」
男は嬉々として叫ぶ。
括りつけられた線路に、徐々に嫌な振動が伝わってくる。
そしてそれは轟音へと変わった。
(おわり)

今回の「トロッコ問題」のテーマをより深掘った考察記事を書いています。
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