なぜサスティナブルが格好良いのか?
「週1のペースでゴミ拾いをしているんです」
と、僕が言うと「えらいね!」とか「いい人!」と言われたりします。
もちろん褒められて悪い気はしませんが、僕はその時に少しの違和感を覚えるのです。
というのも、僕はゴミ拾いを「良いこと」よりも「格好良いこと」として捉えてゴミ拾いをしているからです。
僕はゴミ拾いをはじめとする「サスティナブル」なことを心から格好良いことだと感じています。
それはなぜか。
自分の思考を整理するためにも文章に残していきます。
令和5年の現代日本社会において、25歳の僕が感じているのは「勝ち組になれるなら勝ち方にはこだわらない」という考えの人が増えてきているんじゃないかということです。
誰かを蹴落としてでも、誰かを騙して裏切ってでも、ダサいことや悪いことをしてでも自分が勝ち組になることができれば良いという考えの人が増えているように感じます。
言い換えれば、「自分が良ければ良い」という考えが蔓延しているのではないでしょうか。
例えば、2着の服があるとします。
2着の服の見た目(デザイン)は全く同じで、着心地も全く同じです。
片方の服は1万円、もう片方は100円。
この時点では、誰がどう見たって100円の安い服を買うでしょう。
しかし、100円の服は「デザインの盗用」「環境に負荷のかかる制作工程」「立場の弱い人たちが不当な労働を強いられている」といったサスティナブルではない面を多く孕んでいるとしたらどうでしょうか。
安いけどサスティナブルではない服と少し高いけどサスティナブルな服。
どちらが「良い」服であるかは一目瞭然です。
それでも「見た目も一緒でどうせバレないし」「だってお金ないし」「自分は嫌な思いしてないし」と「自分が良ければ良い」の精神で100円の服を買う人は正直ダサいと感じます。
逆に「誰にも気づかれないかもしれないけれど」「安い方がそりゃあ嬉しいけれど」「何かが犠牲になってしまうのなら」と1万円の服を選べる人は格好良いと感じます。

確かにサスティナブルな製品は高いことが多いし、サスティナブルなことを考えて実際に行動しようとするのは面倒かもしれません。
自分だけの幸せを考えて、誰かの苦しみや悲しみといった犠牲を見て見ぬフリする方が遥かに簡単で生きやすいです。
しかし、そこで人や環境や社会のことを考えてサスティナブルな選択をできる人を僕は心の底から格好良いと思います。
これがサスティナブルなことが格好良いと思う理由です。
僕も気づかぬうちにサスティナブルでない製品を買っていたり、無自覚の内にサスティナブルでない言動や行動を取っていることがあるかもしれません。生活の全てをサスティナブルにしようとするのはお金と時間に余程の余裕がないと不可能かもしれません。
しかし、できることから始めていき、サスティナブルではないダサいことを避けることは誰でもできます。
「自分だけが良ければ良い」なんて考えはダサい。
サスティナブルは「良いこと」でもあるけれど、それ以上に「格好良いこと」だと感じませんか?
勝ち組なんか目指すより格好良い人を目指せるように心がけます。
