灯台を今少し登ったところ(7月エッセイ③)
私の父が中学校のPTA会長を務めていた頃、卒業式の言葉として「ひとつの話を理解するには、年齢の2倍かかると言われています。ですから、私がこれからする話を理解するのは君たちが30歳になる頃だと思います。」という話をしていたのをなぜかよく覚えている。
父は私が中学校に入学する少し前に、剣道の稽古でアキレス腱を断裂した。しばらく松葉杖で生活していた父は入学後すぐに行われた保護者会で異様に目立ってしまい、PTA役員として活動し始め、あれよあれよという間に次期PTA会長に就任してしまった。本来なら任期は1年であるが、私が中学2年生の時に就任したため、そのままもう1年会長を務めた。ちなみに、冒頭の話は私が中学2年生の時のもので、自分が卒業生の時に父が何の話をしたかはよく覚えていない。
私は中学1年生の夏休み明けから円形脱毛症にかかった。抜け毛に歯止めがかからず、冬休みが明ける前日にバリカンで全ての毛髪を剃り上げ、13歳にして眉無しのスキンヘッド姿になった。そんなわけで既に校内で目立っていた私に、父親はPTA会長という属性が加わり、大事な式などでは同級生たちから向けられる好奇の目が恥ずかしかった記憶がある。
PTA会長のような、いわば損な役回りを任される父の性質は、親戚のごたごたに振り回された祖父から受け継いだのではないだろうかと時折考える。私が10歳の頃、祖父が亡くなった。葬式で、父が思い出話として「おじいちゃんは兄弟が借金とかして色々大変だったからね」と懐かしむように語っていた。
その10年近く後、祖母の葬式の時に一家の墓を初めて見た。墓の前で叔父さんから「ひいおじいちゃんは実家のお金を持ち逃げして、その上いいところのお嬢様と駆け落ちしたらしい」という話を聞かされた。ひいおじいちゃんがした“やらかし”の落とし前を今みんなで取らされているんじゃないかと思った。話は逸れるが、祖父は自身の葬式に「お坊さんを呼ぶな」と遺言を残すほど大の坊主嫌いだった。私が初めて行った葬式は祖父の式だったため、お経って葬式の時に読むものなのだとまた別の親族が亡くなった時にようやく知った。思春期の頃には、葬式にお坊さんを呼ばなかった罰として私が坊主にさせられたのではないかと恨んだ。
中学1年生という自分の見た目を特に気にする時期に脱毛症になったことは、私の人格形成に大きな影響を与えたように思う。馬鹿にしてくる奴の目を浴びて、ひそひそと悪口を言う奴の悪意を浴びて、もともとひねくれていた性格がより曲がっていった。最終的には“気にすることないよ”と周りに言いふらすやつを見て「なんでお前の好感度集めに協力しなくちゃいけないんだよ」とさえ思った。
そうして人と関わるのが嫌になっていった結果、逃げ込んだのが本の世界だった。
小説もそれなりに読んだけれど、学生時代大きく影響を受けたのは鷲崎健さん、星野源さん、若林正恭さんのエッセイだ。最近、学生時代ぶりになんとなくエッセイを読み返してみた。まずエッセイの中に出てくる著者思い出の曲をサブスクですぐに聞けるという体験が新鮮で面白かった。当時はサブスクなどに入っていなかった分、エピソードとともに楽曲を楽しめるのはまた新たな発見になった。さらには大学生、社会人を経て行動範囲も広くなったため、憧れの人たちが若い頃にどこで曲やネタを書いて、どんな場所で過ごしてきたかということについて思い出の地の位置関係や街のイメージまで浮かぶようになった。
また読んでいる最中、今まで意識していなかった文章の癖のようなものが目についた。自分がエッセイを書き始めた頃の文章に照らし合わせて見ると、当時この人たちの文章を一生懸命真似しようとしていたんだなと気づき、少し恥ずかしくなった。
読んできたエッセイを読み返していて、音楽、芸人、ラジオ、イベントなど何かを経て、何かを成し遂げてきた中で繋がった関係性が読者を獲得してきたのだということを強く感じた。私自身も何かしらの活動を目にして、この人たちのことをもっと知りたいと思ってエッセイを手に取った。様々な活動を通してより高く築き上げられた関係性にこそ文章に面白さが宿るのだと思った。
私は小説を書くために、文章を書く練習と習慣づけのためにエッセイを書き始めた。小説を出しているわけでもないし、何か目立つような活動もしていない私はなかなか読者を獲得できないわけだと半分納得、半分落ち込んだ。
中学から大学入学したての頃に触れた本を改めて読んでいると、過去の自分と今の自分の変化をしきりに感じた。
自分で言うのも恥ずかしいけれど、ここ5年間でかなり内面が変化していったと思う。ド派手な自意識で自分も他人も否定しまくっていたけれど、今は自分を肯定するし、人にどう思われようと自分の好きなものを突き詰めたいし、表現をしたい。だから今は、自意識はそこそこにしながら、前よりも前向きに生きていると思う。
人見知りじゃなくなったら、エッセイが書けなくなるんじゃないかと思ったけれど、意外と書きたいことはできるし、親しい人が増えることでむしろ面白い出来事が起こる。負のエネルギー、ネガティブな思考が消えたら、何も書けなくなるんじゃないかと感じたこともあったけれど、そんな簡単に嫌いな人間や嫌な出来事は消えるものでもなかった。
大きな会場で好きなアーティストのライブを見ている間、仕事で出来上がっていない資料のことがふっと頭に湧いてきて、不安に駆られた。新しい負のエネルギーもやってくる。
ただ平気になったこともある。今じゃ円形脱毛症でスキンヘッドになったことに対して、インカムをつけてもバレバレだからドッキリの仕掛け人とかできないなぁくらいにまでネガティブな感情が減った。
色々な変化を経て、人見知りもそろそろ治ったかと思ったある日、友人の知り合いでアクセサリーを作っている人の展覧会に行こうという話になった。私はてっきりギャラリー的なところに行くのだと思っていたら、新宿のディープな場所にあるバーの中でやるのだと直前で知り、身構えた。
雑居ビルの奧にある店内はキャンドルの明かりだけで照らされ、薄暗かった。店内は5、6人入ったらいっぱいになるほどの狭さで、カウンターにいるマスターの神経が店中に張り巡らされているのを感じた。何年もの間、酒好きたちが過ごしてきたであろう時間を想像し、自分のパーソナルスペースを失った私は完全に飲まれた。
席についてしばらくした頃、知り合いとその知り合いが共通の知人の話をし出した。当然、その知人のことなど1ミリも知らない私はその瞬間、完全に手持無沙汰になった。頼んでいたコーヒーの味の中に逃避するかのようにごくごくと飲んだ。今まで飲んだコーヒーの中で1番美味しかったのだけれど、目の前にいるマスターに「美味しいです」も「これはどこの豆なんですか」も聞けず、話を続ける知り合いをBGMに私はまだまだ人見知りであるということを痛感した。丁寧にドリップされた味わい深いコーヒーは苦みをあまり感じなかったが、その時の気分ほど苦みを感じるものはなかった。
そういえば、今まで読んできたエッセイに教えてもらった1番大きなことと言えば、「悩みは永遠に続く」ということだ。勘違いしないでほしいけれど、それは絶望とは違う。自分と似たような人たちがぶち当たっている絶望はいずれ自分もぶち当たる。新たなエッセイでまた新たな悩みにぶち当たっているのを見る。この先も何か悩みは生まれるということを知っているだけで、それは器械体操のマットのような役割をしてくれる。
若林さんのエッセイの中で、後輩に対して、若い時に自分ができなかったにもかかわらず社会人としての生き方を教えたことを心のどこかで恥じるような内容が書かれていた。私は恥を忍んで書いてくれてありがとうと思った。エッセイは自分にとってまさにそういった教えを得られる場所だったからだ。エッセイに著者ができなかったことを書いてくれたから、今の自分がある。もし知らなかったら、性質が似ている自分は同じくらいできないまま大人になっただろう。
長くなったが、PTA会長になった父の話に戻る。中学卒業も近くなった頃、先生から「お父さんはあなたが脱毛症になってから、それが心配で学校に関われるPTA会長になったらしいよ」と言われた。思春期バリバリの自分は余計なお世話だし、今更言われても…と思った。でも何かしようとしてくれている人の存在に救われても良かったと今更ながら思った。
父親の話から11年近く経過し、14歳だった私は明後日に25歳になる。あと3年。父親の話していたことの意味が分かるだろうか。
ここまで長々と自分の半生を振り返った。伝わらなかった部分も大いにあるだろうけれど、伝わらなくても当然なのだ。だって、人が話を理解するには年齢の2倍かかるのだから。
