暗がりクラガリ【短編小説】

 吐き出す二酸化炭素をまといながら、私は首を絞める。自らの首を十本の指で軽く握る程度だ。それは余計なものをそぎ落としていく夜の儀式。
 騒めきも、憐れみも、取り繕った笑顔もひとつずつ剥がれ落ちて、残るのは白と黒の濃淡だけ。
 その境目で、私は自分の核となる心に触れられ、やっと呼吸ができる。ほどなくして指は弱々しく胸元へ滑り落ちた。

 薄く光る鏡に映った自分の顔は昼よりも頼りなくて、輪郭が曖昧だった。
 儀式を終えるとすぐ横で、いつものように「クラガリ」が座っている。といっても、はっきりした形があるわけではない。
 私の隣に。部屋の片隅あたりに。視界の端に。まばたきの瞬間に。少しだけ不自然に濃くなった暗がりがある。そこから生えた黒い線が枝となり、影絵のように何本も静かに揺れている。
「ずっと見てたんでしょう」
 そっとそう言うと、クラガリが頷いたような気配がした。気のせいじゃない。長い間一緒にいると微かな身じろぎも何となくだが、わかる。

 心が擦り減っている夜ほど、クラガリは存在感を強める。内側がひりひりして、言葉が上手く繋がらない日にはなおさらだ。
 抑え込んだ言動や途中で折ってしまった感情が、黒い線になって部屋のあちこちをゆっくりと縫い合わせていく。
「そんなに心配しなくても、もう慣れてるよ」
 私がつぶやくと、天井近くにまで伸びた細い筋が揺れる。まるで、少しだけむくれているみたいに。

 昼の色たちは、いつも狂騒している。
 誰かの笑いの鮮やかと、誰かの涙の濁りと、期待や諦めの入り混じった色合いとかが遠慮なく振り撒かれている。
 その中で私も何かの色に分類される。似合わない明るさを塗られ、剥がれかけたまま取り残される日もあった。
 そして心の中身が白と黒の濃淡しか受け付けなくなる夜もある。そういう時には、どんな華やか色も、表面だけの虚ろな光に見えてしまい、触れようとするとすぐに崩れ落ちる。
 空虚な煌めきだ。手のひらには何も残らない。
 だからだろう。クラガリを求めてしまうのは決まってそんな夜だった。

 明暗だけで描かれた静かな景色の中に沈めば、私の呼吸は楽になる。色の濁流に追い立てられずに済む。
「クラガリ」
 拡がる黒い線を見上げながら、私は名前を呼ぶ。
「もし、あなたの中にたくさん色が詰まっているのだとしたら、どの色を一番最初に見せてくれるのかな」
 返事はない。けれども部屋の空気が少しだけ熱を帯びた。
 壁に沿って伸びていた線が、ゆっくりとうねりながら形を変え、模様を編みはじめる。はっきりしない輪郭の中に、確かに意思のある気配が座り込んでいる。
 こわくはない。黒い線がいつも不安を連れてくるとは限らない。深い夜だけに浮かぶ星のように、照明の消えた私という存在を見つけだしてくれた時もある。
 私が目を背けていた間に、見たくなかった景色を全部飲み込み、形が崩れないように支えていてくれたのかもしれない。

 視線を少しずらすと、遠くの灯りが雨粒に砕かれているのが見えた。
 濡れた道はひどく暗く見える。その暗さの中にだって、本当は色が潜んでいるはずだ。
 消えかけた夕暮れの赤や、どこかで揺れる緑や、息を引き取ったネオンの紫。
 そのどれもが混ざり合い、ただの黒として目に届いているだけなのだ。
 クラガリもそれと変わらないのだと思う。
 かつては名前があった名無しの色たちがぎゅうぎゅうに押し込まれた結果としての黒。
 呼吸するたびその色が肺に、内側の空洞に、ゆっくりと流れ込む。
 色は血を巡り、沈んでいた記憶の断片をひとつずつ撫で、ばらばらだった感情をほどけない塊にまとめていく。

 どこかに連れていってくれないかな。クラガリを眺めながら問いかけた。すると床の上に細い線がするすると伸びた。
 暗い一本の道が部屋の端から端へ、そして見えない向こう側へと続いていく。現実には存在しないはずの道を形作る。目を凝らせばその上をそっと歩いていけそうな気がしてくる。
「そんな顔をしなくてもいいのに」と誰かに言われた記憶が浮かぶ。耳の外側からではなく内側の、もっと奥のほうから。
 身体の奥がちくりとした。この言葉を私はいつ、誰に言われたのだろう。思い出そうとすると、クラガリの線がそっと首を振るように揺れる。
 いい、と告げられた気がする。思い出せないままでいて、いい。
 その響きに従って、私は息を吐く。目を閉じるとまぶたの裏にもクラガリが明滅していた。黒の中に小さな光の粒が点々と浮かんでいる。
 ひとつは、あの早朝になくした吐息。
 ひとつは、言葉にならない言葉のあとの長すぎる静寂。
 ひとつは、もう二度と触れないざらついた誰かの感触。
 どれもすでに色を失ってしまったはずなのに、指を伸ばせば曖昧な記憶の破片に爪の先がかすった。
「もし、もう一度だけ色を拾えるとしたら」
 唇を動かさず、心の中へたずねる。
「それは明るい色じゃなくても、いいのかな」
 少しのあいだ沈黙が続き、それから内側でかすかな震えが生まれる。クラガリが頷いたのだとわかる。
 そうだね。淡い灰でも、深い青でも、沈んだ茶色でもかまわない。たとえ冴えない色だとしても私が自分の手で拾いあげたと感じられるなら、それで十分だ。
 まぶたの裏の黒さに濃淡が差しはじめる。こわばっていた気持ちが緩やかにほどけながら、ひとつ、またひとつと落ち着ける場所を見つけていく。
 この感情に無理に名前をつける必要はない。
 黒い線で私を覆い癒やす儀式に、飽きもせず付き合ってくれるクラガリを只々愛おしいと思った。

 今日は眠れそうだろうか。私は私に聞く。答えはすぐには出ない。
 それでも身体をベッドに預け、脱力してみると筋肉と骨の繋ぎ目が緩んだ。
 クラガリが満足したように部屋じゅうへ拡がっていく。天井のすみから足元まで暗さを行き渡らせ、それからまたひとつの塊になって、私の胸の中に還っていく。
 大丈夫じゃないけれど、大丈夫。
 まぶたを閉じれば白と黒の間に、明日という未知の景色が待ちぼうけしている。
 今夜、笑顔で眠れるかどうかはわからない。でも、ちょっとだけ口もとを緩めて、重力に逆らわないことはできそうだ。クラガリがどこまでも深い夜のふりをしながら、その底のほうで私を優しく抱きとめ、形を保ってくれているのがわかるから。
 おやすみ。
 唇だけでそう告げる。
 暗がりの中にクラガリはもういない。
 一度、深呼吸をして、私は眠りの暗がりに沈んでいく。

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