🎬『鬼龍院花子の生涯』〜筋を通して生きる女の矜持
※本文では映画の最終盤についても言及しています。
威勢の良さと情感が同居しているような土佐弁の響きがまだ耳の奥に残っている。男衆のすえた汗の臭いと女たちの白粉の甘い香りがまだ鼻孔の中に残っている。
もう一日たつというのに、まだ映画『鬼龍院花子の生涯』の世界から抜けきれないでいる。
大正から昭和にかけての土佐の侠客の世界にどっぷりと浸りきった146分。夏目雅子演じる松恵とともに、この侠客一家の盛衰を見届けた達成感も、心地よい疲れとしてまだ身体に残っている。
松恵が鬼龍院一家に養女として迎え入れられてからの数十年を描いた本作からは、長い年月の流れをただ断片的につまみ食いしたような印象を受けない。ある時間を選択し、抽出して描いているはずなのに、全体を通して、すかすかな時間の空隙を感じない。数十年という時間の積み重ねが、はっきりと体感できる。
仲代達矢演じる鬼政と夏八木勲演じる子分との信頼関係の醸成、夏目雅子と室田日出男演じる一家のまとめ役との交流の深まり、仙道敦子演じる少女時代の松恵と中村晃子演じる妾の疑似姉妹的なふれあい。脚本、演出、演技、さらには舞台美術やカメラワークも含めて、映画的な表現の結実として、ちょっとした言葉や仕草の中に、関係性の変化や進化、そこに費やされた時間がしっかりと織り込まれている。
この時間の積み重ねの重みを実感できるからこそ、映画最終盤、鬼政が花子を救出するため、あるいは花子と共に死ぬために最後の殴り込みをかける前、一代限りで鬼龍院一家が幕を下ろす瞬間に触れて、胸が熱くなる。鬼政や松恵と共に泣くことができる。
侠客一家の終わりであり、家族の終わりであり、時が染みついた場としての”家”の終わりでもある。そのすべての終焉の切なさと痛みが、観る者にはっきりと伝わってくる。
もうひとつ印象的なのは、登場人物たちが皆、本心を隠し、口にすることができない思いをじっと胸に抱えていることだ。あけっぴろげで素直で、自由奔放に生きているように見える鬼政でさえもそうである。
皆が複雑な人物として造形されていて、口に出しているセリフとは別のことを、表情と目が語っている。セリフの意味をなぞったり強調したりするような演技を超えたところに、人間の複雑さが立ち上がる。
もちろん役者たちの実力によるところも大きいが、それを可能にしているのは脚本と演出の力だろう。
自分の感情をほとんど語ることのなかった岩下志麻演じる歌の最期のシーンの凄まじさも忘れがたい。彼女が決して語らずに長年胸に抱き続けてきた思いの深さに、呆然と立ち尽くすことしかできない。
本作の背景にあるのは、侠客の時代の終わりであり、破滅的な戦争へ向かっていこうとする日本である。
けじめをつけた人生を送らなければ、何のために生まれてきて、これまで何のために生きてきたのかわからない。夫である山本圭に、まるで自分にも言い聞かせるようにして語る夏目雅子の言葉には、様々な時代の制約の中でも筋を通し、自尊心を持って生きようとする女性の姿がはっきりと刻まれている。
もちろん、今現在の女性の自立やジェンダーの問題とはそのまま重ならないかもしれない。それでも、地元有力者の飼い犬として漫然と生きることを潔しとしなかった鬼政の精神を受け継ぎ、「なめたらいかんぜよ!」と啖呵を切るひとりの女性像を打ち立てることには、当時の観客、とりわけ女性たちのあいだに、自分の意思で強く生きようとする意地と矜持への共感を呼び起こす力があったのだろう。
この意地と矜持への共感こそが、男の僕の五感にも、いまなお生々しく残る深い余韻の正体かもしれない。
だからこそ、この映画の余韻の中にいると、強者に媚び、軽薄に振る舞う女性がこの国のリーダーであるという現実に、なおさら心が沈んでしまうのだ。
(2026年3月22日 シネ・ヌーヴォ)
