生産性ばかり気にする人生が楽しいわけがない
最近は「生産性」とか「効率」とかそんなのばっかりだ。
本屋に行けば「生産性を100倍に!」みたいなタイトルの自己啓発本がずらりと並んでいる。
「タイパ」って言葉が2022年の「今年の新語」で大賞に選ばれているくらい、生産性や効率は皆好きだ。
まぁ割りかし気持ちは分からんでもない。
時間を効率的に使いたいのは僕も同じだから。
大学の課題を瞬殺で終わらせたくて、集中力に関する本を読んだり、wordやExcelの勉強もやっている。
資本主義のこの社会では、仕事をできるだけ早く効率的に終わらしたいと思っている人も多分多いと思う。
自分で言うのもあれだけど、そこまでは健全な範囲というか、むしろ必要不可欠な思考だと思う。
この思考がないと現代社会で食っていけないしね。
でも、その思考が過剰になったとき、つまり生産的でない事柄に罪悪感や虚無感を抱き始めた時は少し注意が必要な気がする。
例えば、映画を見たり、自分の好きなことをしたりするにしても、「これは生産的ではないし…」みたいな考えが頭をよぎる瞬間。
これを経験した人は多分割といるんじゃないかな。
数年前の僕はそうだった。
タイパやコスパに囚われていた。
勉強しない時間は非生産的、多少のお菓子を食べることは健康に悪い。
みたいな。
(お菓子の例はちょっと違うか)
でも、最近はよく思うんだよね。
タイパや生産性を過剰に求めた先にあるのは何なのだろう、って。
そもそも生産性や効率を追い求めるのは、自分の時間を作るためだったり、より大きな成果を上げるためだったりするんじゃないかな。
そしてその最終的な目的は「自分の人生を楽しむこと」だと思うんだよね。
あくまで生産性や効率を求めるのはその手段の第一歩ということだと個人的に思っている。
じゃあさ、「勉強や仕事、その他の生産的とされている何か以外に取り組むことを生産的ではない」と軽んじたり切り捨てたりするのは変な話だと思う。
それはもう行動の基準が目的ではなく、手段に支配されていると感じるんだよ。
一般的に生産的ではないと捉えられているものたちは沢山ある。
趣味、雑談、テレビ、芸術、昼寝、空想……
これらはお金やスキル、健康に直結しないという意味では生産的ではないかもしれない。
でも、僕はこれらにも意味はあると思うんだ。
人生を楽しむのに、これらは欠かせない気がするんだ。
そして、あえて「生産性」の視点で見てみても、人生そのものや生きるという行為においては限りなく大きな生産性になっていると思う。
お金やスキルではなく、人生という単位で見てみたとき、それは想像もつかないくらいの生産性を発揮していると感じるんだ。
結論はこう。
現代社会で食べていくために生産性は求めよう。
でも、「生産的」ではない事柄に罪悪感を抱く必要はないし、むしろ生産的ではない事柄をちゃんと楽しもう。
それは回りまわって人生を彩らせてくれるから。
