自殺批判のナルシスム
自殺者は地獄に行く、という昨今の日本社会の思潮には、キリスト教ですら辟易するだろう。キリスト教は常に神による救済に立って思慮するわけだから、例外処置を想定しているはずである。ダンテは自殺者の森で、胸を引き裂かれるようだった。
しかし日本教は、ただ自らの生を恍惚化させるためだけに、他者の自殺を批判する。「自殺は残された者の心を傷つける」「自殺は弱い者のすること」「自殺は生きることを否定すること」などという格率は、単に自己の周辺や環境を本位にした哲学にすぎない。そこには他者の苦痛に対する無理解と、また自己の幸福な哲学への愛の裏打ちしかない。
末期の病に苦しむ者が「終わらせてくれないか」とこいねがう時、キリスト教は、日本教ほど非情にはなれないだろう。現に今日のヨーロッパ発の安楽死の潮流は、キリスト教の隣人愛の変形とも見て取れる。他人の苦しみを終わらせる温情である。
しかし日本教の自殺批判者たちには隣人愛の欠片もない。その「気高い」精神が神・仏・儒のどれに由来するかは分からないが、ともあれそこには、自分はまだ死地に立っていないという、優越感や安心感が隠れている。共に苦しみを分かつ高揚ではなく、ただ他人の尻を叩くだけの自己防衛のほとぼりがそれなのだ。
今日の日本人に自殺を批判する資格はない。なぜなら日本の自殺者は、まさにその批判者の圧力から逃れるために自殺するのだから。
日本人は他人の苦しみに「イラつく」民族である。それはきっと、究極の臆病さから来る本能だろう。そしてそういう人間こそ、自らが窮地に陥ったときには、あっさりと自殺してしまうのである。
腹を切るという旧儀は、大体そんなところだったのではないか。
