入れ歯を飲み込んだって?
横断歩道の前で、赤信号を待っていた。
風が少し強く、通りを抜けていく音が、立ち話の言葉をところどころさらっていく。
それでも、二人の女性の会話の一節だけが、不思議とはっきり耳に残った。
「……入れ歯を飲み込んで、救急車で運ばれたらしいよ……」
前後はわからない。
誰の話なのかも、どこで起きたことなのかも知らない。
それでも、その言葉だけが、妙に重く残った。
やがて信号が青に変わり、人はそれぞれ歩き出した。
会話はそこで途切れたが、情景だけが頭の中に残った。
ストレッチャーで運ばれてくる人。
周囲に集まる医師や看護師。
慌ただしい空気の中で、何が起きているのかを確かめていく静かな手つき。
ただの立ち話の断片が、急に現実の重さを帯びる。
少し前のことを思い出した。
水を飲んだとき、思いがけず気管に入り、強くむせた。
止まらなくなり、目に涙がにじむ。
水を飲むという簡単なことが、こんなふうにできなくなるのかと、少しだけ驚いた。
入れ歯を飲み込む。
それは決して、遠い話ではないのかもしれない。
高齢の人を見ていると、ときどき戸惑うことがある。
どうしてそんなことを、と思ってしまう瞬間もある。
けれど、あのむせた一瞬を思い出すと、
その戸惑いは、若いからということに気付く。
ほんのわずかな衰えが、
あるとき、思いがけない出来事になる。
赤信号のあいだに聞こえた、短い会話だった。
もうその続きを知ることはない。
ただ、あのときの風の強さと、
聞き取れた言葉の断片だけが、
なぜか静かに残っている。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!