山手線の春、胸倉つかんで次の駅
春の山手線だった。窓から入る陽がやわらかく、車内の金属の冷たさを少しだけ和らげていた。通勤時間帯を過ぎた車内には、朝の張りつめた空気がほどけたあとの、ゆるい静けさが漂っていた。
現役で働いていた頃、関係先へ向かう途中のことである。私は吊革につかまり、ぼんやり車内を眺めていた。次の停車駅が近づき、ブレーキの揺れに身体が少し持っていかれる。
そのとき、斜め右の座席に座っていたおじさんが、前に立っていた男性に声をかけた。
「俺、次で降りるから座りな」
よくある光景である。
東京の電車には、不思議な距離感がある。誰も深入りしない。それでも、ときどき驚くほど素朴な親切が現れる。落とし物を拾う人。ベビーカーを持ち上げる人。席を譲る人。そんな小さな善意で、この大きな街はなんとか軋まずに動いているのかもしれない。
譲られた男性は、軽く手を振った。
断ったのだと思った。
ただ、その瞬間、おじさんの顔色が変わった。
「なんで俺の親切を無駄にするんだ」
低く濁った声だった。
車内の空気が、すっと固くなる。
男性も低い声で言った。
「座る必要はない」
次の瞬間には、おじさんが立ち上がっていた。男性の襟元をつかむ。男性も反射的につかみ返す。
春の光が差し込む昼前の山手線で、ついさっきまで席を譲っていた二人が、今にも殴り合いそうになっている。
私は、もうだめだと思った。
駅に着き、ドアが開いたら始まる。そう思った。
だが、電車が止まり、扉が左右に開くと、二人は胸倉をつかみあったまま、そのまま一緒に降りていった。
しかも、降りたあとも離れない。
まるで連れ立って歩く知人のように、同じ方向へ歩いていくのである。胸倉をつかみあったまま。
(下車駅、一緒かよ。と心の中でつぶやいてしまった。)
あの光景を、私は妙によく覚えている。
可笑しかったのだと思う。
危ういのに、どこか間が抜けていた。
喧嘩そのものより、「気持ちの行き違い」が、そのまま形になって歩いているように見えた。
席を譲るという行為は、たしかに親切である。けれど親切は、ときどき難しい。
受け取ってもらえなかった善意は、行き場を失う。
断った側にも事情はある。疲れている日もあるし、人と関わりたくない日もある。ただ、ほんのひと言、「ありがとう。でも大丈夫です」があったなら、あの空気は少し違ったのかもしれないとも思う。
もちろん、そんな余裕がいつも人にあるわけではない。
それでも、人はたぶん、席そのものを譲りたいわけではないのだ。
「あなたを気にかけました」
その小さな灯りに、気づいてほしいだけなのかもしれない。
そしてまた、断る側も、「見えています。でも大丈夫です」と返せたなら、善意は傷にならずに済むのだろう。
うまく譲れない人がいる。
うまく断れない人がいる。
うまく受け取れない人もいる。
山手線の車内で胸倉をつかみあっていた二人は、案外、似た者どうしだったのかもしれない。
春の電車には、今日も誰かの小さな親切が乗り合わせている。
それは目立たず、たいていは何事もなく過ぎていく。けれど、ときには不器用にぶつかり、人を困らせ、少しだけ傷つける。
それでもたぶん、人はそういう不器用さごと抱えながら、他人と一緒に生きている。
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