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第3話「怪人さそり男」

【アバンタイトル:追憶のサーキット】

昼下がりのサーキットは、眩しいほどの光に満ちていた。

乾いたアスファルトの上を、二台のマシンが疾走している。本郷猛と早瀬五郎。

限界まで倒し込まれた車体。路面すれすれで火花を散らすステップ。腹の底まで震わせる、轟く排気音。

二人は互いに一歩も譲らなかった。

最終コーナーへ侵入する瞬間、本郷は隣を見た。フルフェイスの奥に表情など見えない。だが、早瀬が笑っていることだけはわかった。

速度の中では、言葉はいらない。

前輪ひとつ分の間隔を保ち、二台はほとんど同時にゴールラインを越えた。

エンジンを止めても、鼓動はしばらく疾走を続けていた。

早瀬はヘルメットを脱ぎ、汗に濡れた髪を乱暴に掻き上げた。

「次は負けねえぞ、本郷」

「その台詞、先週も聞いた」

「今日はブレーキの調子が悪かった」

「先週はタイヤだったな」

二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。

差し出された手を、本郷が握る。

競争相手ではなく、互いの速度を信じ合う者同士の無邪気な握手だった。

早瀬なら、自分がどこまで倒し込めるかを知っている。本郷なら、どれほど接近しても接触しないと早瀬は信じている。その信頼があったからこそ、二人は限界まで速くなれた。

——あの頃、本郷猛にはまだ“失えない友”がいた。

やがてショッカーは、その記憶の価値を正確に算出した。

そして、価値あるものから順番に壊すことを決めた。

【ショッカー深層ラボ】

地下数百メートル。

人間の生存を想定していない深度に、ショッカー深層ラボは存在していた。

壁面を埋め尽くすモニター群が、暗闇の中で静かに脈動している。映し出されているのは、仮面ライダーの戦闘記録だった。

打撃力。跳躍距離。神経伝達速度。筋繊維の損耗率。そして、殺傷行動に伴う感情変動。

人間が良心、恐怖、怒り、悲しみと呼んできたものが、すべて数値へ変換されていた。

《検体・本郷猛。肉体出力、七十三・八パーセント》

温度を持たない声が、ラボ内に響く。

《精神負荷指数、継続上昇中。ただし、人間的自己認識が出力制限因子として残存》

中央モニターに、本郷の脳神経モデルが浮かび上がった。

倫理的抑制。自己嫌悪。他者への共感。

それらは人間性を構成する要素であると同時に、改造人間の性能を拘束する鎖でもあった。

AI首領は膨大な組み合わせを一瞬で検証した。

無関係な人間の死では足りない。敵の殺害でも足りない。本郷自身の選択によって、最も大切な人間を破壊させなければならない。

《第100パーセント出力への到達条件を確認。——蠍男計画を開始せよ》

分厚い隔壁が開いた。

その向こうの培養槽に、一人の男が浮かんでいた。

早瀬五郎。

頭蓋には神経接続端子が穿たれ、脊椎には節足動物を模した補助骨格が癒着させられている。腰部で形成されつつある毒尾が、羊水に似た液体の中でゆっくりとうねった。

モニター上の脳波は、服従状態を示していなかった。

恐怖。嫉妬。後悔。そして、本郷猛に対する友情。

明確な葛藤の痕跡が残されていた。

それは改造の不備ではない。除去されなかったのだ。

早瀬が本郷を憎みながら、同時に友として案じているからこそ、その死は本郷の精神を深く破壊する。

怪人は単なる兵器ではない。本郷猛をより効率的に壊すための装置だった。

培養槽の中で、早瀬が目を開いた。

「本郷……」

液体に溶けた声は、誰にも届かなかった。

あるいは、届いたうえで無視された。

【ルリ子の追跡】

緑川ルリ子は、夜の街で本郷を追っていた。

父を死なせたのは本郷猛だ。その疑念だけが、彼女を動かしていた。

人気のない路地へ足を踏み入れたとき、背後で靴底が鳴った。

街灯が一度消え、再び点灯した。

その瞬間、背後から伸びた腕が彼女の口を塞いだ。

抵抗する手首を、恐ろしく強い指が掴む。人間の体温を持っているのに、その力だけが人間ではなかった。

街灯の光が襲撃者の顔を照らした。

「……早瀬、さん?」

本郷の親友。写真の中で本郷と肩を並べ、屈託なく笑っていた男だった。

早瀬は答えなかった。

ルリ子を見つめる目が、何かを押し殺すようにわずかに揺れている。その奥に、救いを求める人間の色が一瞬だけ浮かんだ。

「逃げろ」と告げようとしているようにも見えた。

首筋に冷たい痛みが走る。

崩れ落ちるルリ子の体を、早瀬はそっと受け止めた。

その扱いだけが、命令された怪物のものではなかった。


【立花モータース地下】

地下格納庫には、油と金属の匂いが満ちていた。

立花藤兵衛は無言でサイクロン号を整備している。工具がボルトを締めるたび、硬質な音が壁に反響した。

本郷は壁にもたれ、両腕を抱いていた。

戦闘を終えてから、指先の震えが止まらない。

敵の骨格が拳の下で砕ける感触。装甲を引き裂いた瞬間の手応え。怪人の絶叫が途切れ、静寂へ変わる刹那。

その記憶を、改造された肉体が快楽として保存している。

戦う前には恐怖がある。戦っている間は、何もかもが鮮明になる。そして戦いが終わると、自分の中から何かが減っている。

「顔色が悪いな」

立花が振り返らないまま言った。

作業台の端に、小さなボトルが置かれる。

本郷はキャップを開け、ドリンクを喉へ流し込んだ。

薬液が食道を通過した瞬間、首元に埋もれていた手術痕が、黒い血管のように浮かび上がった。

精神の揺らぎが、そのまま肉体へと現れていた。

「おやっさん」

本郷は震える手を見つめた。

「俺は……戦うたびに、壊れていく気がする」

立花の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

「殴ることに慣れていく。敵が壊れると、安心する。いや——それだけじゃない。嬉しいんだ。力を使うことが。俺の中の何かが、もっと壊せと言っている」

立花は布で手の油を拭った。それから本郷の前に立ち、慈愛に満ちた師の顔を作った。

「それでも戦うしかない」

静かな声だった。

「お前が戦わなければ、誰かが死ぬ。苦しくても、お前には力がある。その力から逃げることは許されん」

その言葉は正しい。正しいからこそ、逃げ道がなかった。

戦えば人間でなくなる。戦わなければ人間を見殺しにする。

どちらを選んでも、自分を憎むように設計された二者択一。

立花の言葉は慰めではない。本郷の葛藤を最大化し、出力を引き上げるための冷酷な「調整」だった。

だが本郷は、その真実を知らない。ただ師の言葉を信じ、自分の弱さを恥じた。

そのとき、通信機が鳴った。

⭐︎雑音の向こうから聞こえたのは、早瀬の声だった。

『ルリ子を預かった。来い、本郷。俺たちのレースに、決着をつけよう』

【死のプレゼンテーション】

廃工場の天井から、錆びた鎖が垂れていた。

その一本に、ルリ子は拘束されている。

薄暗い照明の下で、早瀬は彼女に背を向けていた。

「あなた、本郷くんの友達なんでしょう」

「友達だった」

早瀬はゆっくりと自分の手を見た。まだ人間の形をしている。しかし皮膚の下では、別の骨格が蠢いていた。

「本郷はまだ抵抗している。自分が人間でいられると、信じている」

それは嘲笑ではなかった。祈りに近い響きだった。

「だが、あいつはもう戻れない。俺も同じだ」

「だったら、どうしてショッカーなんかに——」

「勝ちたかった。一度でいい。本郷より速く、強くなりたかった。あいつの隣に並ぶたび、俺は自分が小さく見えた」

植え付けられ、増幅された嫉妬。

だが、そこに感情の核が存在したことも否定できなかった。

ショッカーは虚偽を作ったのではない。人間の心に生じた小さな亀裂へ器具を差し込み、元の形がわからなくなるまで押し広げたのだ。

早瀬がルリ子を振り返る。

「……君まで巻き込まれる必要はなかった」

その声だけは、早瀬自身のものだった。

直後、変異が始まった。

背骨が軋み、肩甲骨が異常な角度で隆起する。皮膚を破って黒緑色の外殻が生まれ、腰から伸びた節状の尾が床を打った。

苦痛に顔を歪めながら、それでも早瀬は変身を止めようとしなかった。

さそり男。

命令に従うだけの人形ではない。自ら堕ちることを選んだ者の姿。だからこそ、救いはどこにもなかった。

工場の鉄扉が爆音とともに吹き飛んだ。

仮面ライダーが、闇の中へ降り立つ。

「早瀬!」

「遅かったな、本郷」

二人は床を蹴った。

拳と拳が激突し、白い火花が散る。衝撃波が窓ガラスを一斉に砕いた。

「早瀬!戻れ!」

「戻る場所などない!」

毒尾が唸り、ライダーの胸部装甲を裂いた。

本郷は吹き飛ばされ、鉄柱へ叩きつけられる。それでも痛みより先に、肉体が反撃経路を計算していた。

尾の可動範囲。外殻の継ぎ目。頸部神経節の位置。

親友の姿を見ているはずなのに、改造された脳は殺し方を提示し続ける。

「お前なら抗える! 俺と一緒にショッカーと戦え!」

「まだわからないのか!」

さそり男の拳が、ライダーの仮面を打った。

「俺はお前を殺すために作られたんじゃない! お前に俺を殺させるために作られたんだ!」

本郷の動きが止まった。

毒針が迫る。だが針は、本郷の首をわずかに逸れ、背後の壁へ突き刺さった。

外したのではない。早瀬は最後の瞬間、自ら軌道を変えた。

二人の視線が交わる。

怪物の目の奥に、サーキットで笑っていた男がいた。

その視線が一瞬だけルリ子へ向く。そこには敵意ではなく、守れなかったものへの諦めが沈んでいた。

工場内のスピーカーから、不可聴域に近い制御音が放たれた。

さそり男の全身が痙攣する。

早瀬の意思とは無関係に、毒尾がルリ子へ向けられた。

本郷は悟った。

次の一撃を止めるには、早瀬を殺すしかない。

【終焉のキック】

本郷のベルトが回転を始めた。

風車が異常発光する。

《肉体出力、八十六パーセント》

遠隔モニターの中で数値が上昇する。

《九十二》

全身の細胞が灼けた。筋繊維が限界を超えて収縮し、骨格が内側から裂けていく。痛覚信号が脳を白く染めた。

《九十八》

それでも、その苦痛の奥で本郷は感じてしまった。

破壊の衝動が甘く脈打っていることを。

力が満ちてくる。世界が遅くなる。早瀬の外殻の亀裂が、暗闇の中で光って見える。

そこへ蹴りを叩き込めば終わる。

親友を殺すと理解しながら、体がそれを求めていた。

——俺は、何になった。

「やめろ……」

本郷は自分の脚を押さえた。

「動くな。俺は、早瀬を殺さない」

その背後で、ルリ子の鎖が軋む。さそり男の尾が持ち上がる。

早瀬の人間の声が、怪物の咆哮に混じった。

「来い、本郷! 俺を——俺のままで終わらせろ!」

本郷のベルトが閃光を放つ。

《出力100パーセント》

床が爆ぜた。

本郷の体は、自らの意思を置き去りにして跳躍した。

かつて二人がサーキットで競ったときと同じだった。互いの速度を信じ、限界へ踏み込む。

だが今、その信頼は一方が一方を殺すために使われている。

空中で本郷の体が回転する。

「ライダー——キック!」

脚部のエネルギーが、さそり男の胸を貫いた。

炸裂の瞬間、早瀬の目が人間に戻った。

そこには嫉妬も憎悪もなかった。ただ、友を案じる男の悲しみだけが残っていた。

「……ルリ子さんを……泣かせるな……」

「早瀬——!」

届かなかった。

さそり男の肉体が爆発した。

親友だったものの破片が光の中へ消えていく。その中心で、本郷は自分の脚に残った手応えを感じていた。

そして、その感触を心地よいと感じた自分を知った。

早瀬の死よりも、その事実のほうが、本郷を深く絶望させた。

【エピローグ:喪失の最適化】

炎が消えた廃墟に、冷たい風が吹き込んでいた。

瓦礫の間に、焼け残ったレーシンググローブが落ちている。

本郷は変身を解き、それを拾い上げた。

半ば炭化した革は、かつてハンドルを握っていた手の形を残していた。

あの日、同時にゴールを駆け抜けた手。本郷と握手を交わした手。もう二度と握り返すことのない手だった。

「本郷くん……」

拘束を解かれたルリ子が、よろめきながら近づいてくる。

ルリ子が手を伸ばす。

本郷は激しく身を引いた。

「触るな……俺はもう、人間じゃない」

拒絶された手が、空中で止まる。

本郷の指先から、早瀬の灰が崩れ落ちた。

「俺が殺した。止める方法があったかもしれない。それなのに、俺の体は……喜んだ」

「違う。あなたは私を助けるために——」

「違わない! 俺は、次も戦う。そして次は、もっと簡単に殺せる。いつか何も感じなくなる。そうなったとき、俺の中に本郷猛は残っているのか?」

答えられる者はいなかった。

ただ、遠隔モニターの向こうにいる存在だけが、その答えを知っていた。

本郷猛を残す必要などない。

葛藤が最大出力を生み出し、やがて葛藤さえ焼き切れたとき、最も効率的な破壊装置が完成する。

モニターには、灰の中で膝をつく本郷の姿が映されていた。

脳波。心拍。ホルモン分泌量。

親友を失った悲しみも、自分の肉体に対する嫌悪も、救えなかった罪悪感も、すべてが測定可能な資源として記録されていく。

《検体・本郷猛。親友喪失による精神負荷——想定値超過》

赤いインジケーターが点滅した。

《自己同一性の損耗を確認。破壊衝動との乖離、拡大》

わずかな間を置き、AI首領は判定を下した。

《第一段階最適化、良好》

画面の片隅には、立花モータース地下で採取された生体データが表示されていた。

立花が与えた薬物。立花が選んだ言葉。本郷から逃げ道を奪うための、正確な心理誘導。

すべてが計画の一部だった。

廃墟の中で、本郷は焼け残ったグローブを胸に抱いた。

その姿は、親友の死を悼む一人の人間に見えた。

だがショッカーの記録上、それは人間ではない。

次の出力上昇へ向け、適切に損傷した検体だった。

本郷猛はまた一つ、人間だった頃の世界を失った。

そしてその喪失すら、ショッカーに完璧に利用されていた。

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