不作為の罪 ―辺野古ボート転覆事件―
あるいは、当事者たちの無策とお役所仕事について。
辺野古での出来事
前回は学校側の安全管理に焦点を当てたが、今回はそれ以外の人々の行いに焦点を当てたい。
まず、辺野古ボート転覆事件を語るうえで、簡潔に辺野古の抗議活動そのものを簡単に整理したい。
辺野古での抗議活動については、主だった沿革は下記の通り。
1990年代後半、普天間飛行場の移設先として辺野古が浮上
基地建設反対運動の中心が辺野古へ移る
2004年以降、キャンプ・シュワブ前や海上での座り込み・カヌー抗議が本格化
座り込みは「毎日続く長期抗議」として全国的に報道される
2014年、活動が10年目を迎え県民大会や「人間の鎖」など大規模行動と連動
2024年6月28日、名護市安和桟橋付近でダンプカー巻き込み事故発生
警備員の男性1名死亡2026年3月16日、辺野古ボート転覆事故発生
船長の男性および女学生の2名が死亡、同乗していた多数の生徒が負傷
道路不法占拠
辺野古周辺には抗議を行う団体が使っているテント村なるものが存在する。
一般に道路を占有してデモ等を実施する場合、道路交通法による警察署への道路使用許可申請は必要となる。
が、果たして適正な手続きは行われていただろうか。
彼らは8000日も座り込みを実施していると主張している。
これが申請されて、かつ長期間にわたって使用許可を出していたのであれば、沖縄県警の判断について適正性が問われて然るべきだろう。
少なくとも構造物が道路上で長期間にわたって撤去されていないことに関しては、道路管理者が許可を出していない限りは、沖縄県及び沖縄県警に責があるのではないか。
また、道路管理者は沖縄県なり自治体であろうから、いずれにしても沖縄県ないし自治体に責があるのではないか。
公安条例が存在しない
そもそも多くの自治体では、デモ内容や目的、ルートや責任者などについて「集会・集団行進・集団示威運動許可申請書」などの文書にて警察署に届け出る必要がある。
しかし、沖縄県ではその限りではない。なぜなら、公安条例が存在しないからだ。したがって、デモなどにあたり上に挙げた道路交通砲における使用許可が必要な手続きとなる。
なお、1948年から1950年にかけて各自治体が公安条例を続々と制定した。
沖縄返還が1972年のため、歴史的な経緯からある意味仕方のない部分もあるかと思うが、デモによる安全上の問題は今回に限った話ではなく、節度のある抗議活動を課すために公安条例の制定は出来なかったものだろうか。
人命を害した事故の反省が行われていない
一つは、結果系から見て当事者である抗議団体側が抗議運動を安全なものへ再設計できていなかった。
それは辺野古ボート転覆事件やその後に行われたダンプカーへの妨害活動の性質を見ても明らかだろう。
ダンプカー巻き込み事故後、抗議団体は 「市民の安全を第一に、行動方法を見直す」 と表明している。
ただし、同時に以下のような要求を出している。
工事側、行政側に対して「安全対策の強化」を要求
現場の「危険な誘導方法」の是正を要求
要するに「相手が悪い」と責任を投げ捨て、今回の辺野古ボート転覆事でリスクが顕在化したので説明不要と思うが、「十分な改善は行われなかった」、と私はみている。
今回も他人事にして逃げを図っているように私は見ている。
報道による社会的な是正は十分行われなかった
上で述べたように、抗議団体は「まゆつば」な反省しかしていない。
実質的な安全確保が行われなかった。
それは社会的な関心や追及が十分でなかった、ひいては十分な社会的意義のある報道が行われなかったためだろう。
報道機関の社会的意義もまた機能不全を起こしている。
今回もまた産経以外の主要な報道機関は積極的に取り扱わないことで「事件の風化」を狙っているように見える。
政治と行政の責任
みんなが「見て見ぬふり」をして子供が殺されたようなものではないか。
取り締まりの不在
積極的な意思と能力があれば、沖縄県警は抗議団体の道路使用について、一定程度の排除ができたであろう。あるいはその機会は何度もあったはずだ。
こんなにも長期間にわたって活動家を野放しにて、研修旅行という活動家のエコシステムが作られ、平和学習の名を借りた一種の「資金カンパニア活動」を放置した結果、今回の事故が起きた、という見方も否定できまい。
県警本部長および県知事・議会の不作為
20年以上にもわたり危険な抗議活動を黙認してきた。
また、公安条例のような政治的施策も打たなかった。
たとえ一時的にエスカレーションしたとしても、危険な抗議活動を取り締まっていれば、少なくとも今回のような無益な事故は起きなかったのではないか。
果たして、「やるべきことをやらずに、起こしてはならない事故を起こした」という誹りを免れ得るだろうか。
京都府・知事の不作為
私学の指導は、文部科学省の直轄ではなく京都府教育委員会が管轄している。
また、今回の当事者である同志社国際高校の旅行のしおりに、辺野古への座り込みに参加するよう要請する抗議団体側の呼びかけが含まれていたことが報道されている。
このような教育基本法に反するような行為が行われていないか、という指導ができていなかったとすれば、京都府にも監督責任が問われるだろう。
また、校外活動の実施計画書の作成や緊急対応計画などについての指導が適切に行われていたのか、という面で正当な手続きが行われていたのか、今後の検証を待ちたい。
文科省の不作為
上に挙げたように、現在は教育基本法に反するような活動が放置されてきた、または実行的な指導ができていなかった、と見るべき。
思想信条の自由という美辞麗句を尊重する前に、適性な教育活動が行われるように実効性のある施策や枠組を構築するべきではないか。
「民意」の不作為
これを言うとたぶん怒られるだろうけど、今回の問題は究極的には政治というか民主主義の問題ではないか。
「平和」にせよ、「戦争反対」にせよ、「子供の命」に勝るような命題は多くはないだろう。
別に平和学習も抗議活動もやればいいさ。
問題は、なぜ危険な抗議活動は放置されてきたのか。
そのようなことを放置する代議士や知事を選び続けたのか。
我々の民意は、結果として「子供を見殺しにした」のではないか。
