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逢うて別れて また逢えぬ ―― 曽根崎・恋と死のあわい

さてさて、折しも、世の移ろいかくの如し。
本日は神楽坂は志満金の三階座敷、肘掛け椅子に腰を下ろし、三味の音に耳を澄まし、野澤松也師匠の浄瑠璃「曽根崎心中」を拝聴してまいりましたぞ。すごいじゃろ? ワクワクするぞな! 胃袋には鰻、耳には浄瑠璃、心には元禄の恋と死。これぞ令和の“心中フルコース”でござんす。

 ところで実はな、ここだけの話じゃが、心中という言葉、現代人の耳には少々ぎょっとする響きを持ちつつも、江戸の町では、これがまあ流行語のごとく、芝居小屋から長屋の井戸端まで飛び交っておったんじやよ。
 恋と義理の板挟み、財布は空っぽ、心は満杯。出口が見えぬと、あら不思議、「一緒にあの世へ行こうか」という発想が、妙にロマンチックに見えてしまうのが人情の怖いところ。

ひとつ狂歌に託して申せば——

恋の借り 返せぬ夜に 月ばかり 見上げてふたり 命も質入れ

おっと、縁起でもないが、これが当時の空気。近松門左衛門先生の筆にかかれば、曽根崎、天満屋、網島と、心中はもう“シリーズもの”。人気が出れば芝居小屋は満員御礼、役者は大忙し、ところが幕府は眉にしわ。「こりゃあ人が死にすぎる」と、ついに“相対死”と名付けて、死体はさらすわ、生き残りは死罪だわ、芝居は禁止だわで、恋も命もまとめて取締り。今で言えば“ラブロマンス過激指定”でございますな。

芝居見て 恋に命を かけるなら 奉行の目にも 恋は罪なり

明治に入ると、文明開化のガス灯の下で、「心中なんぞ封建的で不衛生である」と、なんだか恋まで消毒される勢い。表向きは減ったものの、社会のひずみは床下に溜まる埃のごとく、見えぬところでじわじわ。
 昭和に入れば新聞が拡声器、事件は一夜で全国区。坂田山心中、阿部定事件……名前だけで背筋がひやりとする事件が、“愛と死”を猟奇と紙面で包み、世間の茶の間に投げ込まれる。

愛と死を 売り物にする マスメディア 見世物小屋は 令和も健在

いやはや、こうして見渡すと、心中とは単なる昔話にあらず。時代ごとに顔を変え、ロマンになり、罪になり、猟奇になり、そして今また、ドラマや映画の中で“美談”として蘇る。
 便利になったはずの現代、出口の見えぬ悩みを抱える者が減ったかといえば、そうとも言えぬ。形を変えた“心中予備軍”は、スマホの向こうに、今日も静かに座っておるやもしれんぞえ。

実はな、ここだけの話じゃが、今日の浄瑠璃を聴きながら、わしは思うたのじゃ。
「恋に命をかける」のは美談で、「仕事に命をかける」のは美徳で、「税に命をかける」のは、これはもう職業病。けれど、命をかけねばならぬほど追い込まれぬ世の中を作るのが、本当の“文明開化”ではなかろうかと。

ひとつ考え遊びに、お付き合いくだされ。
もし曽根崎のお初と徳兵衛が、令和に生きておったなら——。
借金は分割払い、相談は生成AI、心中は検索履歴で未遂。
あの二人、あの世行きの切符を買う前に、カウンセラーとコーヒーでも飲んで、違う結末を選んでいたかもしれませぬな。

さてさて、折しも世の移ろいかくの如し。
浄瑠璃の調べを耳に残しつつ、今宵はわしも、命を粗末にせぬための“考え遊び”を、もう一杯の熱燗とともに、じっくり味わうことにいたしましょうぞ。

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