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megmat
冷水の事
真冬の、小さな漁港。
岸壁に、太いロープが一本、無造作に這っていた。
幼稚園に通う年齢だった俺は、
それを踏んで歩いた。
綱渡りの真似ごとをするみたいに、
遊びと危険の区別もつかないまま。
そこから転んだ──らしい。
そう書くしかないのは、
そこから先のことを、俺が覚えていないからだ。
記憶に残っているのは、
海の色でも、水の冷たさでもなく、
転ぶ直前に足裏へ伝わった、綱の感触だけ。
本当のことは、後から聞いた。
落ちた俺を、偶然見ていた人がいた。
当時、高校生だったという、近くに住む若い人。
名は出さない。
記号のように語ることもできるが、
その人は、確かに実在する一人だ。
彼は、防波堤から海に入った。
判断の理由も、感情の動きも、
細かな経緯は残っていない。
俺は、そのときのことをまったく覚えていない。
水の中で誰かを見た記憶も、
引き上げられた感触もない。
ただ、
もしその人が、
落ちていく小さな身体を目で捉えていなかったら、
俺はここにはいない。
ズブ濡れのまま岸に上げられた幼い俺。
息を整えながら立っていた若者。
遅れて駆け寄ってきた親や家族。
その場の空気を、俺は知らない。
けれど今になって想像すると、
胸の奥から、静かに何かが込み上げてくる。
感謝という言葉では足りず、
敬意というには私的すぎる。
思慕という言葉が、いちばん近い。
不思議なことに、
そんな出来事の当事者だったという意識は、
成長するにつれて薄れていった。
俺は、海辺で育った。
ぼーっと海を眺め、
何も起きていなかったかのように。
十八になるまで、
その場所で暮らした。
誰かが、
幼く脆弱だった俺の人生を、
極寒の水の底から引き上げてくれたことを、
深く考えることもなく。
これは、告白でも回想でもない。
確かにあった出来事を、
記憶の底から掬い上げて、
そっと置いておくための、
個人的な備忘録だ。
