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ナショナル・アイデンティティが国を成長させるのか―『テクノロジカル・リパブリック』を読む(31)

はじめに

アレクサンダー・C・カープ&ニコラス・W・ザミスカ『テクノロジカル・リパブリック』(村井章子訳、日本経済新聞社、2026年3月)を読む。副題は「国家、軍事力、テクノロジーの未来」とある。

著者はAIエンジニアリング会社(SaaSよりAI導入のSE会社とされる)パランティア(Palantir)・テクノロジーズの共同創業者である。ちょっと前はアメリカの軍事とAIの話題にパランティアはたびたび登場していた。最近はアンソロピック(Anthropic)やOpenAIも名前が挙がるが、もともとパランティアは米軍のシステムエンジニアリングにかかわっていたという背景がある。

考えてみれば、企業が国や軍を語ることなど10年前には考えられなかった。日本では今でも考えられない。ただ、無人化、ロボット化、AI応用については20年以上前から言われてもいたことなのだ。

そもそもシリコンバレーは民生先端技術の世界的中心地なのだが、AI発展と普及に至って国家的なことに言及するようになった、ということだろうか。

また、本書のまえがきの最後に「パランティア自体~共通の目的を持つ創造的な企業を構築する試みを続けている。行動とは、パランティアの場合はソフトウェアをはじめとする開発の成果を世界に届けることだ。そして、その理論を初めて明確な形で世に問うのが本書である」とあり、この書き方から必ずしも一般市民の視点やビッグテックと同じ考え方でもないのだろう。

つまり、パランティア自身の政治的・商業的立場を背景とした主張書、と客観的には言える。

本書は全4部、18章で構成される。今回は第4部「テクノロジカル・レパブリック(科学技術立国)の再建」、第17章「ナショナル・アイデンティティ」を、前回の続きから読む。


第4部第17章 ナショナル・アイデンティティ

The Next Thousand Years(続き)

民族、宗教といったアイデンティティ以上の結びつきで成り立つアメリカという国家を建設する事業の拡大を著者は訴えたのであった。

アメリカの定義には、部分的には多くの矛盾があるという。また、そのこと、つまり広い意味での国民文化の概念を採用することに苦労していることは、多くの国でも同様である、と著者はフランスサッカー選手の国籍を挙げて言う。

※この著者のこの見方、つまりわかりやすいという限定性は、逆に時代逆行的であり、またそれをテクノロジーやその構築の思想を持った人々で構成しようという、本末転倒の態度で臨むことは、民主的な国家の倫理を考える場合、かなりずれた話になっていると考えられる。

アメリカに住むということは、共通に分かち合えるものを何か持つことがもはや考えられないほど、人によってあまりに違う経験になっている。その結果、アメリカ人が「アメリカ文化」というものを規定して書くことがもはやできなくなっている。世の中には、外国人による外国人向けのアメリカ文化というものしかない、という。そういった本には「アメリカ文化の研究においては、国民性やナショナル・アイデンティティではなく国内外の対立を調べることに重点が置かれている」とあるようにだ。

そして、著者は、国を介した共通の文化、ひいてはアイデンティティや帰属意識の役割を認めるべきだろうかと詰め寄る。認めないなら、(※いまある現状として)空洞化した文化の空隙を埋めるのは消費文化であるというのだった。これは富と地位によって(※社会が?人間関係が?)決まる文化だ。これを、国民文化や共通のアイデンティティのもたらす価値を真剣に考えなかった今日の左派の戦略的失敗だという。


1965年10月3日、シンガポールのリー・クアンユーは、独立したばかりの国家の大義のために力を貸してほしいと訴えた。マレーシアから独立を果たしてわずか二か月の頃であり、将来を不安視する大衆を安心させる責務がリーにはあった。当時、土地の狭いシンガポールが独立して生き残る確率は極めて低かった。またシンガポールは、多言語の出身の異なる人たちが集まっていたのだ。そのため、政府の取り組みは国民の私的領域にまで干渉することもあった。

シンガポールは元々イギリスの植民地であり、マレー語を話すマレー圏の一部であった。そこに多くの中国語の方言が入ってきたのだった。この状況で、普通教育において外国語を教えると、伝統的な価値観を失い、まがい物の欧米流が身につくことを恐れ、国として長く存続するために、標準中国語を学ぶことを義務付けたのだった。批判は多かったが、国中の市民が意思疎通できるようになることが連帯のために絶対に必要だとリーは考えたのだ。このことは国が分裂する危機からシンガポールを救ったとされる。

※正確に言うと、民族的・言語系統的に標準を定めている。つまり、英語を共通の実務言語(民族間の意思疎通のための共通語)として全国民に必修化する一方、各民族の「母語」(中国系には標準中国語=北京語、マレー系にはマレー語、インド系にはタミル語など)を第二言語として必修化し、中国系住民の間で広く話されていた方言(広東語、福建語など)を抑制して標準中国語(北京語)に統一する「講華語運動(Speak Mandarin Campaign、1979年開始)」を進めた。

シンガポールは固定政権の独裁的な国であるが、国民に選択権が無いということでもない。GDPは1960年には一人当たり428ドルだったのが、2023年には8万4734ドルになった。成功した国家といえるだろう。


シンガポールが実現した独立後半世紀の躍進の功労者を一人だけ挙げるなら、リー・クアンユーといっても反論する人はいないだろう。また、西洋の歴史(19世紀)においては、「時代を救う偉大な人間」(トーマス・カーライル)の存在は一般的な見方であった。

とはいえ、歴史上の出来事の要因に個人の思想を重視するのは間違いだろう。経済的、政治的要因も重要だ。現在は男尊女卑もなくなった。しかし英雄崇拝も流行らなくなった。人々はリーダーシップそのものにも辟易し、懐疑的になっている、という。また同時に人格や徳への関心も薄れてきたという。今日の物質主義的な文化では言葉で表すことが難しい、と関連付ける。

今日の左派は、ナショナル・アイデンティティについて語らないという決定的な過ちを犯した。ここで、ナショナル・アイデンティティとは、民族意識とは訣別したものである。ヨーロッパでもアメリカでも左派は自らの中立を保つため、それについて率直に語る機会を支持者にも与えなかった。

ナショナル・アイデンティティはここ数十年の世代において拒まれてきた。政治哲学者マーサ・ヌスバウムも「祖国愛」は「道徳的に危険」であるとし、「第一義的に忠誠をつくす」べき相手は「全世界の人類が作る共同体」だと主張した。著者は、これはポスト国家の話であり、今の国家でナショナル・アイデンティティを避けてポスト国家に向かうのは軽率で時期尚早という。

※ヌスバウムの言っていることをポスト国家と著者は片付けてしまったが、人類全体、すなわちすべての国家や人々への配慮を欠いた排他的愛国心への警戒なので、各国のアイデンティティがあっても意識したほうがよいのではなかろうか。


フランスの思想家エルネスト・ルナンは、1882年に「国民とは何か」という講演を行った。ルナンは、国民という概念を人種・民族・言語といった狭い基準から切り離した最初の思想家の一人である。ルナンにとって国民という概念は過去の行いを前提とするが、「それを続けていこうとする共通の意志の表明という事実によって現在」にある。この共通の意志こそ私たちが失いかけているものだ、と著者はいうのだ。

国民意識の形成、集合的アイデンティティや共通の神話の構築という大仕事は未完に終わろうとしている。誰かをのけ者にしかねないこと、共通の活動に参加できない人を一人でも作ってしまうことをあまりにも恐れるからだ。

※著者は国民の意識をそのように捉えているようだが、その国民が富と権力を文化としてするということが解釈しにくい。著者が対抗している左派側の態度を挙げているのではないだろうか。

パランティアという社名はトールキンの『指輪物語』に出てくる水晶玉に由来する。そして『指輪物語』は極右のお気に入りだと言われているという。

※この『指輪物語』に出てくる水晶玉については、運の悪さもあるかもしれない。パランティア的にはすべてを見通すシステムエンジニアリングのイメージといったものかもしれない。しかし、その水晶玉は遠くを見通す監視の道具なのだ。これを揶揄するなら監視装置だろう。それで悪口にされているのではなかろうか。

物語、寓話、あるいは小さな神話は、人生を刺激し、もっと大きなことを可能にする。しかしエリート文化にはもはや受け入れられないもののようだ。ただ一定層には受け入れられ、物語や意味付けを求める願望は決してしぼんでいない。ただ、市民生活以外の領域で表現しなければならないようだ、というのであった。


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