テクノリパブリックとはシリコンバレー国家論か?―『テクノロジカル・リパブリック』を読む(33)
はじめに
アレクサンダー・C・カーブ&ニコラス・W・ザミスカ『テクノロジカル・リパブリック』(村井章子訳、日本経済新聞社、2026年3月)を読む。副題は「国家、軍事力、テクノロジーの未来」とある。
著者はAIエンジニアリング会社(SaaSよりAI導入のSE会社とされる)パランティア(Palantir)・テクノロジーズの共同創業者である。ちょっと前はアメリカの軍事とAIの話題にパランティアはたびたび登場していた。最近はアンソロピック(Anthropic)やOpenAIも名前が挙がるが、もともとパランティアは米軍のシステムエンジニアリングにかかわっていたという背景がある。
考えてみれば、企業が国や軍を語ることなど10年前には考えられなかった。日本では今でも考えられない。ただ、無人化、ロボット化、AI応用については20年以上前から言われてもいたことなのだ。
そもそもシリコンバレーは民生先端技術の世界的中心地なのだが、AI発展と普及に至って国家的なことに言及するようになった、ということだろうか。
また、本書のまえがきの最後に「パランティア自体~共通の目的を持つ創造的な企業を構築する試みを続けている。行動とは、パランティアの場合はソフトウェアをはじめとする開発の成果を世界に届けることだ。そして、その理論を初めて明確な形で世に問うのが本書である」とあり、この書き方から必ずしも一般市民の視点やビッグテックと同じ考え方でもないのだろう。
つまり、パランティア自身の政治的・商業的立場を背景とした主張書、と客観的には言える。
本書は全4部、18章で構成される。今回は第4部「テクノロジカル・レパブリック(科学技術立国)の再建」、第18章「審美的価値判断」を読む。
第4部第18章 審美的価値判断 An Aesthetic Point of View
1969年にBBCが「西洋美術史探訪」を制作した。美術史家サー・ケネス・クラークが脚本し、自身が古代ローマからルネサンス以降までを語る番組だ。クラークは1903年生まれで、まだ貴族の名は通用した頃だろう。クラークは、歴史の時代ごとの物語を断定して見せ、それはイギリスやアメリカでもありがたがられた。例えば16世紀のローマの絵師は「貧弱で型にはまっており自意識過剰である」という、(※私的な、ほぼ偏見ともいえる)見解を語った。
クラークにとって文明とは、先進であれ未開であれ、大きな流れとして高みへと向かうものだった。アフリカの仮面(※これは本書の間違いらしい。ヴァイキング船の船首の彫刻である。)とバチカン美術館の「ベルヴェデーレのアポロン」を比較すれば、「アポロンの方が上位の文明を体現している」と結論付ける。また、ヨーロッパにおける文明の歴史においてイギリス人を嬉しがらせる論を立てていた。そして、美全般に関する判断は文化全体について判断を下すことができる、というイデオロギーを持っていた。従って、美の判断により文化のイノベーション創出能力や人類への貢献も評価の対象となった。
クラークの物語は、やがて反発されるようになる。それは美術史の偉人論的なアプローチであり、「卓越した芸術家が次々に現れることによって歴史が作られることになる」と番組放送から半世紀たった2016(2017~2018?)年に作家メアリー・ピアードに批判された。
クラークの評論の大半は、現代では口にできないだろう、という。しかし、その時代錯誤を全面的に拒絶するのは、規範的な審美的判断の枠組みも捨てることになる。よって識別し、判断する能力が衰えてしまった、というのだ。
※現代において美術が無視されているわけでもないので、審美的判断の枠組みがなくなったわけではないだろう。おそらく、差別などを促す用語を使えなくなったことで、判断を表現する言葉を失ったということは言えるだろう。著者は、それゆえに評論すること自体が控えられるという。
今日では美について極めて控えめに言及するだけでも緊張や抵抗を引き起こしかねない。クラーク批判をはじめとする美術批判の棚卸しは手始めにすぎず、他のあらゆる芸術が美術に続くに違いない、という。何によらず、自分の好みを口に出すことさえ、今では対立を招くとして慎重に避けられる、と著者は現状を受け取っているのだった。
また、「美的感覚」でものを言うことはいまや単なる「ステータスの誇示」と片付けられる恐れがある、というジャーナリストのデービット・デンビーの1997年の『ニューヨーカー』寄稿を引用して、美に関する感覚はもはやなくなっているのではないのだろうか、とさえ著者は言うのだった。
事実や美や善について、さらには正義について意見表明することに対して、現代社会はひどく及び腰だ。その結果、社会としてのアイデンティティは薄れ、人々の実体験に意味のある基準を提供することができなくなった、と本題に切り込む。
今やすべての文化は対等とされ、批評も価値判断もしてはいけないことになっている。この新しいドグマは、ある種の文化やサブカルチャー(シリコンバレーの規範や組織文化を含む)が、欠点や矛盾があるにせよ、驚嘆すべき成果を上げてきたという事実を認めない。
何事にも意見を言うことをためらい、好みを表明することを恐れるあまり、限られたリソースや人材の配置といったことにまで判断基準を見失い、自信をなくしている。恐れは萎縮や自己不信につながり、それが生活のあらゆる局面に入り込んでくる。
※著者はシリコンバレーの規範などに言及しているのだが、これは世の中一般の感覚ではないだろう。それに世の中すべての人がシリコンバレーを崇めろと思っているのだろうか。被害者意識があって、それはおそらくパランティアが軍や公共領域側から虐げられている、ということなのではなかろうか。「判断基準を見失い自信をなくしている」というのがシリコンバレーの一般論ではないだろう。むしろここ数年株価は爆騰し、いよいよ相場が反省して調整局面に入った感じだ。ただ、誰もAI関連産業の勢いがなくなるとは思っていないようだ。
※むしろアメリカ全体がシリコンバレーにいろいろ制限を付けるようになったと感じるならば、それはシリコンバレーの事業がアメリカ全体の社会に影響を与えてしまうため、その公共性ゆえに、苦情・要請という形で要求が厳しくなっていると解釈した方がよいのではなかろうか。著者がこのことを認識しているとすれば、シリコンバレーを国家のようにしてしまいたいということを言っているのだろうか。
審美的価値基準の放棄は、技術の構築にとって致命的である。ソフトウェアの開発では審美眼や好みが関わってくる。ソフトウェア開発は科学であると同時にアートなのだ。(※これは著者のオリジナルの見解だろう。それを言い出したら、何事もアートになる。)シリコンバレーの者たちはみな審美的価値基準を失っていない。彼らは19世紀イタリアの彫刻家や画家ではないが、シリコンバレーに安住の地を見出し、審美的な判断を下し、善悪について規範的な主張を打ち出し、勝利と敗北の物語を紡ぐ余地がいまだ残されている。小国に匹敵するほどの規模と影響力を持つ世界最大手のテック企業の創業者たちは、事業を築き上げるために自ら社会を遮断したと言えるだろう。(※途中で事業の話になったが、これは審美的判断というのではなく事業的な判断、欲求のことで、話が違うだろう。)
一つの道あるいは一つの視点を貫き、選択肢をあえて限定することは、状況変化や社会的圧力の中で確かなかじ取りをする最も効率的で、おそらくは唯一の方法である。
※価値観を限定すれば、あれこれと気を回すことなしに、判断基準をもって主張できる、という論だろう。しかし、これは逆に思考停止になるのではなかろうか。官僚の凡庸さについてアーレントが論じていたが、おそらくエンジニアの凡庸さとか、またテックエリートの凡庸さというものもあるだろう。
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