実力が重要か?責任逃れが重要か?―『テクノロジカル・リパブリック』を読む(30)
はじめに
アレクサンダー・C・カープ&ニコラス・W・ザミスカ『テクノロジカル・リパブリック』(村井章子訳、日本経済新聞社、2026年3月)を読む。副題は「国家、軍事力、テクノロジーの未来」とある。
著者はAIエンジニアリング会社(SaaSよりAI導入のSE会社とされる)パランティア(Palantir)・テクノロジーズの共同創業者である。ちょっと前はアメリカの軍事とAIの話題にパランティアはたびたび登場していた。最近はアンソロピック(Anthropic)やOpenAIも名前が挙がるが、もともとパランティアは米軍のシステムエンジニアリングにかかわっていたという背景がある。
考えてみれば、企業が国や軍を語ることなど10年前には考えられなかった。日本では今でも考えられない。ただ、無人化、ロボット化、AI応用については20年以上前から言われてもいたことなのだ。
そもそもシリコンバレーは民生先端技術の世界的中心地なのだが、AI発展と普及に至って国家的なことに言及するようになった、ということだろうか。
また、本書のまえがきの最後に「パランティア自体~共通の目的を持つ創造的な企業を構築する試みを続けている。行動とは、パランティアの場合はソフトウェアをはじめとする開発の成果を世界に届けることだ。そして、その理論を初めて明確な形で世に問うのが本書である」とあり、この書き方から必ずしも一般市民の視点やビッグテックと同じ考え方でもないのだろう。
つまり、パランティア自身の政治的・商業的立場を背景とした主張書、と客観的には言える。
本書は全4部、18章で構成される。今回は第4部「テクノロジカル・レパブリック(科学技術立国)の再建」、第16章「公職者は聖職者ではない」を、前回の続きから読む。
第4部第16章 公職者は聖職者ではない Piety and Its Price(続き2)
社会には、リッコーヴァータイプの人間がたくさんいる。彼らが権力を持ち、裏取引するようなことがあれば社会は許さない。アメリカの文化は、規則・規範の遵守を重視する。著者は、アメリカには、多少行動に問題はあるが、社会に大きな利益をもたらすような高邁な事業に尽くし、実際に成果を出す人物が活躍する余地を残した方がいいのではないか、と言う。
※暴露されても無事な人もいると思うし、失敗しても復帰している人もいるとは思うのだが、アメリカはそれほど厳しいのだろうか。また、「行動の問題」の具体的内容による。
アメリカ社会では高い透明性と正しいプロセスという文句のつけようがない目標にこだわるあまり、それが何のため、どんな結果を出すために必要なのか(たとえば潜水艦の建造、難病の治療法の開発、テロ対策、国益の追求)ということが後回しにされている。
このような主張をすると、功利主義的だとして嫌がられる。だが、どんな課題に取り組むときでも、どこかの時点で生理的嫌悪感を棚上げにしなければならない。結果重視で判断することが難しくて不快になると、崇高な目標に逃げ込んで思考停止に陥る傾向が目に付く、というのであった。
※潜水艦(軍備)や治療薬、テロ、国益の追求といったことには予算はついていないのだろうか。ついているはずだ。それと、人格や性格の話と成果を出すことの関係はあるのだろうか。国家・公共の分野に限ってそれは顕著なのだろうか。ともかく著者は、著者の思うところの国益の追求に対して、アメリカ社会は不快になって思考停止になっている、と考えているようだ。
世間はシリコンバレーやウォール街の高い給与水準を容認し、市場経済で実質的に資本配分の役割を果たすヘッジファンド・マネージャーやトレーダーに払われる結構な報酬も見て見ぬふりをする。ところが、退官した海軍大将が発注先企業と特別な関係にあったとわかると、受け取ったのが大した品物でもなくとも、ここぞとばかり囂々(ごうごう)と非難するのだ。
※これは事実だろう。日本でも政治家や公務員など公職に就いている人のスキャンダルには厳しい。トレーダーの収入については、嫉まれることはあるだろうが、それは仕事の話でスキャンダルではないので、比較がよくわからない。トレーダーについては、単なる能力的なことではなかろうか。
高い地位を目指すのは高潔な善意の人であってほしいと期待するのも分かる。だが、実際には反対のケースが多いことを歴史は教えている。寛容の余地を徹底的に切り捨て、人間心理の矛盾に満ちた複雑さを決して許容しない社会では、権力の座に就くのはその地位にふさわしくない人物ばかりということになりかねない。
集団においてはスケープゴートを求める圧力が極めて強くなりやすい。人間の中にはスケープゴートを探し求める本能的欲求が深く根付いており、それが周期的に湧き上がってくる習性があることをよく理解しなければならない。スケープゴートは他者の失敗、弱点、禁じられた欲望、欠陥を背負わされる受け皿なのである。ただ、スケープゴートを作ることによる開放感は、多くの場合、刹那的なものにすぎない。
現代社会では躍起になって敵の抹殺を試み、それに成功すると慎みなく喜ぶ風潮が見られる。だが、敵の消滅は悼むべきであって喜ぶべきではあるまい、と聖ベネディクトゥスの逸話を引用して言うのであった。
今日では、公職者の業績よりも規則違反をことさらに重大視し、人気や人望のない人間を手ひどく糾弾する一方で、トップの人間は本来出すべき結果を出せなくとも責任を問われなくなった。自分の決断に伴うリスクを引き受ける人はもう多くない。この状況を変えるには、根本的な意識改革が必要だ。テクノロジカル・リパブリックの再建には、国家や共同体への帰属意識の復活が欠かせない、といって次章につなげるのであった。
第4部第17章 ナショナル・アイデンティティ The Next Thousand Years
オックスフォード大学認知・進化人類学研究所所長のロビン・ダンバーは、一人の人間が他者と互いに安定した関係を維持できる個体数の上限に関する研究を1992年に行った。アフリカ、ニューギニア、カナダ北部などの狩猟採集社会の集団を調べ、結果として150人という数字とした(約100~231人)。150人はダンバー数として知られる。
150人を大幅に上回る規模の集団を維持し、直接的な社会関係を形成して継続することは極めて難しい。医療や建設、また人工知能の開発でも、個々の取り組みでは直接に知り合った人同士の結びつきが必要だ。
それでは、数百万、数千万、数億という共同体はどうやって維持するのか。それは、共通の文化や言葉、歴史であり、共通の英雄と敵であり、共通の物語と語法に他ならない。
※共通の英雄と敵、また共通の物語というが、現実的にはそれらは同じ国にいるし、そんなに敵対視しているわけでもないし、物語も人それぞれだ。著者はシリコンバレーを否定しながら肯定し、また国家・公共を否定しながら肯定してきており、細かいところを分けて良し悪しというより、好き嫌いに近いと思うが、それを語っているのではないか。
だが、国家という共同体に共通の文化や共通の価値観に近いものを特定することは、ここ数十年の間に次第に批判を招きやすい危険な行為になってきた、という。フランス大統領エマニュエル・マクロンは2017年に「一つのフランス文化というものはない……フランスにあるのは複数の文化だ」と言った。(※このあたりの話は、ジャック・デリダの脱構築というワードを連想させる。)ただ、マクロンの文化の多様性の強調に、パリ郊外のセーヌ=エ=マルヌの市長イヴ・ジェゴが反論した。「共和国の精神に反する」「物質主義の中に自己を見失う」といったことである。
アメリカ、広くは自由主義世界に住む人々は、ここ半世紀ほどインクルージョン(包摂)を掲げ、それを盾に取って国民文化を明示的に定義することに抵抗してきた。だが、国家の理念を長い間空疎にしてきた結果、包み込むべき実体の大半がなくなってしまっているのだ。多種多様性を包含するアメリカ文化と主張するのは、対立を煽るどころか時代逆行的だと決めつけられかねない、という。(※分断という言葉がここのところよく言われていたが、分断していることが日常ということだろうか。)だが、市民同士の一体感が薄れたのなら、他者とのつながりを本能的に探す欲求をかなえる手段が出現して空白を埋めることになる。スポーツの勝敗などがそれであり、そのような連帯を求める態度を否定するのも間違っている。
民族や宗教に基づく底の浅いアイデンティティ以上のもので構成員が結びついているような国家を、不完全ながらも建設するという大事業に関して、人類の歴史上、アメリカ以上の成果を上げた国は他にない。この大事業を継続、さらには拡大する試みを私たちは放棄しようとしているのだろうか、といって本章の論を進めていくのだった。
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