それ、自己犠牲じゃなくて“自己執着”かもしれません
──「できる先生」だった私が、学級崩壊の中で見つけた光
私はかつて、自分のことを「できる先生」だと思っていました。
前の学校では周りからの信頼も厚く、後輩からも頼られる存在。そんな自分に、誇りすら感じていました。
でも、異動した新しい学校で、それはあっけなく崩れ去りました。
クラス経営がうまくいかず、いわゆる“学級崩壊”が起きたのです。
何をしても児童がこちらを向いてくれない。日々、自信が失われていく感覚。
気づけば私は、職員室の机にうつむいたまま、何度も涙をこらえていました。
管理職や同僚からの小さな指摘にも心がえぐられるようで、どんどん自分が壊れていくのを感じていました。
振り返ってみると、あのときの私は“自己執着”にとらわれていたのだと思います。
「できる自分」でいなければ価値がない。
「評価されたい」「失敗したくない」「認められたい」――
そんな気持ちに、自分自身ががんじがらめになっていたのです。
もしかしたら、うまくいっていた時期でさえ、それは「他者の期待に応える自分」でいようとする自己執着だったのかもしれません。
アドラー心理学との出会いが、私を救った
そんな、精神的にどん底だったときに出会ったのが、アドラー心理学でした。
初めて「共同体感覚」という言葉にふれたとき、私はショックを受けました。
「自分は人のために頑張っている」と思っていたけれど、実際は「どう見られるか」「評価されるか」という、自分のことばかりを気にしていたのだと気づかされたのです。
にわかには信じられなかったし、素直に受け入れられるまでには時間がかかりました。
でも、そんな自分を認めたとき、ようやく共同体感覚という概念が、自分の中にすっと入ってきたのです。
共同体感覚とは、
“自分はこの社会の一員であり、他者とつながって生きている”という感覚。
そして、“他者に関心をもち、貢献すること”によって、自分の価値を感じるという考え方です。
自己犠牲の裏にあった“本当の思い”
アドラー心理学では、「自己犠牲」は自己執着の一種だといわれます。
たとえば、誰かのために尽くしているつもりでも、
「ちゃんと見てほしい」「感謝してほしい」という思いがどこかにある。
それは、見方を変えれば、“よく思われたい”という自分中心の願いなのかもしれません。
私自身、まさにそうでした。
「子どものために」「学校のために」と必死で動いていたけれど、心の奥底では、誰かに認められたい、いい先生だと思われたい、そんな気持ちが手放せずにいたのです。
でも、自己執着に気づいたとき、不思議と心がふっと軽くなったのです。
「自分を守ることばかりにエネルギーを使っていたんだな」
そう気づいた私は、ようやくベクトルを“自分”から“誰か”へ向ける準備ができました。
評価されるためじゃなく、ただ誰かとつながるために動く。
そんな関わりを、少しずつ、取り戻していけたように思います。

もし、今、誰かのために頑張っている自分に苦しさを感じているなら―
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それは“自己犠牲”ではなく、“自己執着”から来ているのかもしれません。
でも、大丈夫。
その気づきこそが、自分自身の生き方をやさしく見つめ直す、第一歩になるからです。
私自身が、そうだったから。
