「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その7 昭和四十二年七月十四日読売新聞掲載『乃木将軍は無能ではない』で今村大将は司馬遼太郎を批判ー追補
今村均陸軍大将について、その「回顧録」を中心にマガジン化して記事を積み重ねています。
下記に記事一覧を纏めていますのでご覧いただければ幸いです。
『「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その6 昭和四十二年七月十四日読売新聞掲載『乃木将軍は無能ではない』で今村大将は司馬遼太郎を批判』 の記事に追補します。
「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その6 昭和四十二年七月十四日読売新聞掲載『乃木将軍は無能ではない』で今村大将は司馬遼太郎を批判|りょうさん
今回は、上記記事を『追補』したいと思います。
(また何十度目かの『今村均回顧録』の再読をしており、読み進むうちに上記記事に加筆したくなったためです)
今村さんは、乃木大将への評価に関して、
上記読売新聞記事以外にも、
「回顧録」中に記し漏らしていたものが以下の記事に書いたエピソードに続いて記していますのでここで追補しておきます。
「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その2 明治四十五年九月|りょうさん
『機密日露戦史』(谷寿夫陸軍中将[=執筆当時大佐]著)
今村さんが、陸軍大学を首席卒業後ほどなく英国へ留学した今村さんは帰国後、陸軍中央の仕事の傍ら、大正十二(1923)年から三年ほどの間上原勇作元帥副官となります。
それは今村さんが少佐のときでしたが、陸大教官の谷寿夫大佐が副官の今村さんを通して「機密日露戦史」の執筆を目的に上原元帥に日露戦中のことを訊き質しに来ました。またそのとき、今村さんを通して乃木大将の旅順戦のことを訊いてもらったことがあります。
その際上原元帥は、明確に旅順攻略時に乃木第三軍司令官がいなければ旅順をあれだけの日時で陥落させることは出来なかった、と答えています。
上原元帥は、砲兵の専門家であり陸軍の中でも要塞攻略のプロと言える将軍です。この言葉ほど信頼のおけるものはないでしょう。この時、今村さんは上原元帥の考えを聞き感銘を受けたと言っています。
(このことは、「今村均回顧録」(前)第一部青年将校の”乃木将軍”の項に記されています)
しかし、ここで問題があります。
実際に、この『機密日露戦史』は司馬遼太郎が「坂の上の雲」を執筆するのに参考にしたというもので、これが乃木愚将説の根拠とされているのです。
ここに明らかに、先の上原元帥への取材結果との”食い違い”があります。
『機密日露戦史』は、既述したように谷大佐が執筆したものですが陸軍大学が主催したものです。この陸軍大学が主催したというところに”食い違い”の味噌があったということを鈴木壮一さんの下記著作から私は知りました。
悪い意味でのキーマンは井口省吾という陸軍大将だということです。日露戦時は満洲軍高級参謀でした。
陸大の教官、教頭、校長と足掛け14年陸大経歴を重ねた人ですが、校長の時、谷大佐に『機密日露戦史』を書かせたという構図になっています。
鈴木壮一さんは、このヒトは作戦の本質を理解しておらず特に乃木将軍に対する偏見が度を越していたということであり、それを『機密日露戦史』に反映させたのであると言っています。そしてまたこういう体質が大東亜戦争における陸軍の欠陥にも帰結したと厳しく批判しています。
詳細は「名将乃木希典と帝国陸軍の陥穽」を読んでいただければと思いますが、
こういう経緯を辿り『機密日露戦史』が乃木将軍に対する誤った認識を伝える媒体となり、司馬遼太郎に伝わったというのがファクトだということです。
以上、「今村大将回顧録」に関する追補から司馬遼太郎の乃木大将に対する誤った認識のもととなった『機密日露戦史』のことについて整理して記事とさせていただきました。
