何度でも言う。書くことは生きること。
戯言を話せるような友人がいない。
大切なことを話す友人も数少ないが、それよりも、普段話すほどのことじゃないけど聴いて欲しいことを話せる友人がいない。「今日の夕焼け、綺麗だったよ」とか、「電車の隣のおじさんに、読んでる本を覗き込まれた」など、有効な情報でもないけど人に言いたくなる時ってあるじゃない。そういうのを共有できる友人がいない。
学生時代の友人は、気づくと育児や仕事に忙しくなっていて、用事もないのに連絡するのが憚られる。職場で出会ってきた友人も、それぞれの用事で忙しいだろうと思うと、どうでもいいことで連絡する勇気が持てない。第一、私自身が連絡がマメじゃない。「会いたい」「集まろう」などの用事がないと連絡しちゃいけないと思っている。
私はものすごく面倒くさがりだ。
「この指とまれ」の役割がすごく苦手で、連絡調整や日取りの決定などの段取りをやるのを避けてきた。私から声をかけないと何も始まらないのは分かっているが、それでも自分から声を出すのが本当に難しい。だから、誰かが最初に何かを言い出してくれるのを待っている節がある。
しかしこの数年、うつ病でドタキャンするのが怖くて、またうつ病のことを腫物扱いされるのが怖くて、すっかり人と会わなくなってしまった。休職中はSNS以外にちゃんとした大人と話すのが、家族や親族以外にいなかった。復職プログラムが始まった今こそ、毎日のように職場の大人と口をきいて過ごせているけど、それまでは所在不明と言われてもおかしくないほど、人と接触を持たなかった。
だから今、職場でたまにどうでもいいことで笑い合える時間が愛おしく感じる。仕事の場だから基本的に無駄口は叩かないけど、それでも息抜きの時に「二男が家庭科で縫ってくれた小物入れを使えとうるさい」とか、本当に些細なことを言える人がいるっていうのが私にとってはたまらなくありがたい。
人と会うときは、いつも話をきいてばかりだったから、自分が話すことってあまりなかった。うまく口を挟めなくて、盛り上がっているおしゃべりに水をさしてしまうのではないかと恐れるばかりで、私のことを話す機会が少なかった。あるとき友人に、「ゆにのことって実はよく知らないんだよね」と言われたときは、衝撃を受けた。
本当のところ、私は、自分語りする場が欲しかった。自分のことを話せないジレンマを抱えたまま友人とのおしゃべりが終わり、消化しきれない思いを抱えたまま受け身で約束を待つ。悪循環すぎて、そりゃあ友人と疎遠になるわなと突っ込みたくなる。自分のことを開示していない人と同等だ。
そんな私だったけど、自分語りをSNSに垂れ流すようになって、バランスが取れるようになった。Xで呟くことは、日常のささやかなシーンだし、noteだって私の思考を知って欲しくて書いている。深く考えていることや読んだ本の話からどうでもいい戯言まで、SNSのおかげで吐き出せる場があって、私は救われている。依存しない程度で上手く付き合っていけたらいいなと思う。
書くことは生きること。
そう何度もnoteで書いてきた。
書くことで何度も救われてきた。
やっぱり書くことが好きだ。
毎日投稿できない今でも、書くことが心のどこかにあるだけで、日常の支えになっている。思考を書いて出すことは、私の生活になくてはならないものだ。
だから私は今日も書くし、書くことへの愛を叫ぶ。
