桜の下の背中──鬼上司は鬼だったのか
春、桜が満開になると、思い出す人がいる。
鬼のように厳しい、でも心に残る、私の初めての上司だ。
「ヤバい、長く働けないかも」
新人のころ、私についた上司がとにかく厳しかった。界隈では指導が一番厳しくて、泣いて辞めた新人が何人もいるという、いわくつきの鬼上司。ただし、彼女の指導を受けて独り立ちできた新人は、仕事がバリバリできるようになるという。まさに伝説の鬼上司。私の上司は、そんな人だった。
4月1日の職場は戦場だった。新人の私の机の上にも容赦なく仕事が降りかかってくる。処理の方法がわからず、上司に聞こうとした。すると、「今言うタイミングじゃない」「自分で考えなさい」「聞き方がなってない」という内容を、激しく厳しい口調で言われた。気弱な新人の私はすっかりビビってしまい、怖くて声が出せない。しかし、聞かなければ仕事は進まないので、機を見て勇気を振り絞り声をかけようとする。人を寄せ付けないオーラを出しながら、彼女は黙々と仕事を片付けていた。本当に忙しいらしく、正直「今新人にかまっている余裕はない」とその表情が物語っている。まるで般若のように見えた。
尋常じゃない数の電話が鳴り響き、切っても切ってもまたかかってくる。仕事を教えてほしくても聞けず、いつまでたっても仕事は進まない。気が付いたらお昼を過ぎ、15時だった。昼食の時間も分からなくなるほど、忙しかった。結局その日は簡単な作業しか片付けられず、電話応対だけで1日が終わった。
帰りに、ロッカーに上着を取りにいったら、途中で職場の先輩たちがひそひそと話す声が聞こえてきた。
「あの子、何日持つかしらね」
「さあ、〇〇さん(上司)きついから、1か月も持たないんじゃない」
「〇〇さん、また新人をつぶすのね」
「毎年のように新人が入れ替わって、こっちも大変だからちゃんと指導してほしいよね」
噂になっている「あの子」は、間違いなく私。同僚からもきついと恐れられている上司につくことになり、すっかり気を落としながら帰路についた。
初日から容赦なく厳しい職場に、先が思いやられる重い気持ちと「初日だからまだわからない」というわずかばかりの希望。板挟みになりながら、翌日出勤した。しかし、初日と何も変わらなかった。むしろ厳しさが増した。上司はまず、出勤するなり「ファッションがダサい」と先制パンチを撃ってきた。そして、私の猫背気味の姿勢にダメ出しをした。メンタルをまっすぐ狙い撃ちにするような彼女の言動に、すっかりタジタジとなってしまった私は、その日もほとんど仕事を聞けずに1日が終わった。
終業時刻に帰ろうとしたとき、彼女に声をかけられた。
「この後、時間ある?」
「あ、特に予定はないです」
断ったらまずいだろうなと思った私は、即座に返事した。
「じゃあ、桜の綺麗なところがあるから、見に行きましょう」
「え?桜ですか」
「ここから近いのよ。行くわよ」
そう言うと、彼女は私を連れて職場を出た。
連れてこられたのは、職場から徒歩5分ほどの公園だった。地元では有名らしく、屋台が立ち並び、にぎやかな様子だ。平日だというのにかなりの人出だった。人ごみを抜けると、人もまばらな場所に出た。
そこはあたりの桜を見渡せる、特等席だった。
夕日に照らされた桜が、競うように咲き誇っていた。
「きれい…」
桜に見とれていたら、上司が口を開いた。
「ここの桜は私のお気に入りの場所なの。あなたが緊張している様子だったから、見せようと思って」
そのまま彼女は続けた。
「私は部下育成に向いていない。今日も余計なひとことを言ってしまうし、忙しいと余裕がなくなるし。優しい言い方が出来ないの」
「今の部署、私には合ってないから配置換えをお願いしても、聞き入れてもらえない。あなたには悪いけど、私はこういう方法しかできないから…」
一息つき、彼女はさらに続ける。
「あなたがもしこの職で生きていくつもりなら、私のことは反面教師として覚えておいてね」
私は驚いて彼女を見る。彼女は続けた。
「他人にも厳しくしているから、私を疎ましく思う人がたくさんいるのは知ってる。それでも、厳しさを良しとしてくれる人には支持される。あなたがどう思うかはわからないけど、私はそういうスタンスで行くから」
私は、何て返したらいいか分からなかった。ただ、職場で見せる顔とは違い、本音で私と接しようとしていることは理解できた。そこには、職場での彼女の姿はなかった。先輩として後輩を世話する、優しい一人の女性だった。
その後、彼女は最寄り駅まで送ってくれた。
「明日からもよろしくね」
そう言って彼女と別れた。
私は、上司と少し心を通わせることが出来たと思い、少しうれしかった。明日からは仕事を聞きやすくなるかと期待した。
しかし、次の日以降も彼女は厳しかった。
「もたもたしない。さっさとやる!」
「この処理にどれだけ時間かかっているの」
「お茶出し、もっとスマートにやりなさい」
こんなダメ出しは日常茶飯事。厳しすぎて、隠れて泣いたこともあった。外野の同僚たちの中には、「〇〇さん、厳しすぎてひどいよね」「たまには言い返しちゃいなよ」と、私と彼女を対立させるかのように焚きつけようとした人もいた。しかし、私はどうしても彼女に刃向かおうという気は起こらなかった。あの桜の日のことを思い出したら、私は彼女を心から憎むことはできなかった。
それだけではない。仕事面での彼女の言動には、納得せざるを得ないことも多かった。私は確かに仕事の手が遅い。そして彼女の理想は高いレベルだ。相手が新人だろうと容赦せず、スピードと正確さを求める。だから注意されても仕方ない面もある。細かい点も含め、「注意」という形で彼女は私に色々教えてくれた。他の人についていたら、教えてもらえないこともたくさんあったはずだ。完璧主義の彼女は、私に1から10ではなく、1から100まで教えてくれようとしていた。そのことが分かったときには、彼女は私の上司ではなくなっていた。
結局、彼女との関係が劇的に変わることはなかったけど、不器用で完璧主義の彼女は、全力で私に向き合ってくれていたのだ。他人だけではなく自分にも厳しくて、一切仕事に妥協しなかった彼女の姿を見てきたおかげで、私は人前でうまく立ち回れるようになっていた。そして私も、後輩を持つ立場になり、彼女の抱えていた思いや葛藤を、少しだけ理解できるようになった。私がひとり立ちしても大丈夫なように、小言や嫌味に思えることも言ってくれていたんだ。心を鬼にして。
今の時代ならパワハラやモラハラで訴えられそうな言動も多かったのも事実だ。しかしそれ以上に、彼女には部下の私への愛情も感じられた。だから私も食らいつけたのかもしれない。
周りから見れば、相変わらず彼女は鬼かもしれない。でも、私にとっては、仕事をたたき込んでくれた大切な先輩だ。
私も異動したので、あの桜を見てはいない。
それでも、春が来て桜が満開になるたびに、私は思い出す。
あの桜と彼女の背中を。
